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書籍紹介:『日中外交秘録 垂秀夫駐中国大使の闘い』(文芸春秋、2025年6月)

書籍イメージ

書籍名:
日中外交秘録 垂秀夫駐中国大使の闘い

  • 著 者: 垂 秀夫
  • 聞き手・構成: 城山 英巳
  • 発 行: 文芸春秋
  • ISBN : 978-4-16-391987-4
  • 定 価: 2,750円(税込)
  • 頁 数: 544
  • 判 型: 四六判
  • 発行日: 2025年6月10日

書評:『日中外交秘録 垂秀夫駐中国大使の闘い』

横山 聡(JST北京事務所副所長)

 本書は、2020年から2023年まで駐中国特命全権大使を務めた垂秀夫氏の回顧録である。垂氏は、外務省チャイナスクール出身のキャリア外交官として、中国共産党・政府関係者のみならず、学者、改革派知識人、ビジネスパーソン、さらには後に亡命する民主派・人権派に至るまで幅広い人的ネットワークを構築し、中国情勢に関する情報収集と分析において際立った存在であった。本書は、その外交現場の内実を、当事者の視点から記録した一次資料としての価値を有する。

 評者として本書で最も注目したいのは、随所に現れる情報収集と分析の方法論である。垂氏は、中国を見る際の基本姿勢として、次のように述べている。

「外務省入省当時、チャイナスクールのある先輩から、中国を見る際は、『群盲、象を撫でる』ということわざを必ず念頭に置けと教わった」

 中国という巨大な国家を見る際は、どの部分を切り取るかによって全体像の捉え方が変わってしまう。その言葉を肝に銘じ、垂氏は中国と向き合い続けた。

 氏は現在の中国について、改革開放がもたらした高度経済成長や軍拡路線を経て、「ゾウどころか巨大な恐竜に代わってしまった」と指摘する。「強い中国」や「怖い中国」「右肩上がりの中国」が強調されていることについては、「一面では正しい」としながらも、「中国は多面的な国家である」とし、次のように述べている。

「『強い中国』という面だけを見ていると、本質を見誤る。むしろ内政的な観点からは、『脆弱な中国』『不安定な中国』『被害者意識の強い中国』の姿が見えてくる。これはなかなかイメージしにくい中国像かもしれない。実際、日本のマスコミがそうした中国の実像を報じることはあまりない」

 これは、中国研究や対中政策を巡る議論においてしばしば陥りがちな単線的理解への警鐘である。垂氏は、「現実を虚心坦懐に見れば、現在ほど中国共産党のレジティマシー(正当性)が揺らいでいる時代はない」と評し、それゆえに「強い中国」をアピールすることで、「共産党統治の正当性を人民に納得させようとしている」と指摘している。

 更に、「『強国』路線の原動力は、十九世紀のアヘン戦争以降の『屈辱の歴史』に起因した被害者意識からくる『力の信奉』である」という対中分析における重要な補助線を引いている。

 この補助線を引くために、垂氏は「当時の清国は『眠れる獅子』と恐れられたが、実際には内政面に弱さを抱え、西洋列強に侵食された。現在の中国も弱さを抱えているがゆえに、西側諸国や周辺国に対して強硬な姿勢で迫ってきている、という面があることを忘れてはならない」という内在的側面を直視する必要性を強調している。

 また、垂氏は情報分析を「ジグソーパズル」に例え、次のように述べている。

「個別の情報というピースだけを見ていても、それが何を意味しているのかは分からない。しかし、正しくピースを組み合わせてゆくと、大きな絵が見えてきて、初めてそれが何を意味しているかが分かってくる。(中略)中国情報の分析では、より多くのピースを入手しつつ、感情や先入観を排して淡々とはめ込んでいく姿勢が、絶対に欠かせない」

 この比喩が示すのは、情報の配置と結合の仕方こそが分析の質を左右するという点である。垂氏は、中国赴任中、年間三百回以上の会食を重ね、膨大な人的接触を通じて情報の断片を収集した。その過程で、徐々に「重要な人物」と「そうでない人物」を見極める眼を養い、得られた情報を感情や先入観を排して組み立てることで、全体像を描き出していったことが具体的に記されている。

 中国では、中央から発せられるスローガンや政策方針と、地方や現場での実装との間に乖離が生じることもある。それが制度的変化なのか、言説上の強調にとどまるのか、また実務にどの程度反映されているのかは、公開情報のみでは判断が難しい場合がある。本書は、その判断が難しい部分をいかに補完するかという点で、多くの示唆を与える。

 その具体例として、2005年の全国人民代表大会で採択が予定されていた「反国家分裂法」立案時に関する記述が挙げられる。当時、同法は台湾武力統一を正当化する法律として広く受け止められたが、垂氏の分析はこれと異なるものであった。情報収集と分析の結果、同法はむしろ武力行使を抑制する枠組みであり、最終手段としてのみ「非平和的方法」を位置づけたものと解釈しうると判断している。さらに、その理解が台湾の情報機関高官とも共有されていたことを確認した経緯も示されている。外から見れば不合理に映る中国の行動も、適切な補助線を引くことで、内在的な論理が見えてくることを本書は教えている。

 本書には、こうした実務的な示唆に加え、垂氏が重視する日中関係史観も随所に描かれている。日本が中国から多くを学んできた歴史、また辛亥革命期の革命派・改革派への日本の支援、改革開放以降の人的交流などを踏まえ、「助け合いの日中関係史」が現在も続いているとの認識が示されている。

 終章では、垂氏自身の外交官としての行動原理が明確に語られる。垂氏は大使時代、重要な仕事をおこなうにあたって、外務本省や世論の動向を気にするよりも、つねに「後世の検証に耐えられるかどうか」を判断基準にしていたという。

 退官に開かれた慰労会で氏は、チャイナスクールの後輩に向け、次のようにエールを送った。

「歴史に恥じない外交をしてほしい。中国との外交に関わることは、日本の歴史を創ることだ。日本と中国の近代史は助け合いの歴史であり、重なり合う部分も多い。対中外交の歴史は、日本の歴史そのものだ。私たちは歴史を創る仕事をしているのだから、歴史に恥じない外交をしようではないか。チャイナスクールという十字架は重い。しかし、歴史を創る側に立つ選択をした以上、胸を張って仕事をしてほしい」

 ここで語られる「後世の検証に耐えるかどうか」という基準は、短期的な世論や空気に左右されがちな外交判断に対する、強い規範意識を示すものである。本書を通じて浮かび上がるのは、対中外交を「歴史を創る仕事」と捉える一貫した姿勢であり、それがチャイナスクールの後進へのメッセージとして結実している点である。

 日中関係が困難な局面にある現在、本書は単なる回顧録にとどまらず、中国を相手に仕事をする者が共有すべき視点と覚悟を提示している。特に、中国の動向を見極める立場にある研究者、実務家にとって、中国理解のための思考の枠組みを示す書である。

以上

 

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