2021年6月9日
林 幸秀(はやし ゆきひで):
国際科学技術アナリスト
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成18年1月 文部科学省文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構研究開発戦略センター上席フェロー
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団理事長(現職)
インドの人口は、世界一の中国とほぼ同等の約14億人であり、将来的には世界一となることが想定される大国である。また近年、インドの科学技術は進展著しい。昨年の秋に発表された文部科学省の「科学技術指標2020」では、インドの科学論文数は世界第6位となっており、またITなどの人材養成面で世界トップレベルにある。そんなインドのノーベル賞受賞者について取り上げたい。
科学技術関係のノーベル賞受賞者数を、各国の科学技術レベルを表す指標として用いることがある。ノーベル賞は世界的に突出した成果に対して授与されるものであり、当該国の科学技術全般の指標とするにはやや無理があるが、それでもノーベル賞受賞者を有しているだけでその国のトップレベルの科学技術水準が高いと考えられる。
ところで、アジア諸国の中で一番早くノーベル賞を受賞した科学者はどの国の人かご存じだろうか。日本がアジアで傑出した科学技術先進国であることを考慮して、1949年にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士がアジアで最初の受賞者と思われる方も多いと思う。
ところが全く違っており、アジアで最初の科学関係のノーベル賞受賞者はチャンドラセカール・ラマン(Chandrasekhara Venkata Raman)というインド人の科学者であり、湯川博士に先立つこと20年近く前の1930年に、ラマン分光法のもとになるラマン効果を発見したことにより物理学賞を受賞している。
さらに驚くべきことは、その17年前の1913年にインドの国民的詩人であるラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)が、インドの古典を英語で紹介したことによりノーベル文学賞を受賞しており、これはアジア人として初めてのノーベル賞受賞であった。
さてラマンであるが、1888年に南インドのトリチノポリ(現ティルチラーパリ)で生まれた。父は数学と物理学の講師であったので、幼い頃から学問に触れやすい環境で育った。1902年にマドラス(現チェンナイ)のプレジデンシー大学に入学し、1904年には物理学科を首席で卒業しゴールドメダルを獲得した。1907年には、やはり最高の成績で同学科の大学院より修士号を取得した。
1907年ラマンは、カルカッタ(現コルカタ)にあったインド大蔵省に入省した。大蔵省での仕事に多くの時間をとられながらも、「インド科学振興協会」で実験研究を行う機会を見つけた。1917年、ラマンはカルカッタ大学物理学科の教授に就任した。ここで、学生時代から継続している光学、音響学の実験研究に取り組んだ。
1928年に自らの学生クリシュナン(Krishnam)と共同で、ラマン効果を発見した。このラマン効果に係る論文 "A New Type of Secondary Radiation"は、クリシュナンとの共著論文としてネイチャーに掲載され、これが1930年のノーベル物理学賞受賞につながった。
ラマン効果とは、物質に光を入射したとき、入射した光の波長と異なる波長の光が散乱する光の中に含まれる現象で、入射する光と物質との間にエネルギーの授受が行われるために起こる。分子や結晶はその構造に応じた特有の振動エネルギーを持つため、単色光源であるレーザーを用いることで、このラマン効果の原理を応用して物質の同定などに用いられる。
ノーベル賞受賞後ラマンは、1933年にバンガロールにあるインド理科大学院(IISc)の学長となり、1948年以降はラマン自身が設立したラマン研究所の所長となった。インド科学アカデミーの設立も支援し、設立当初から会長を務めた。
ラマンは1970年、バンガロールにおいて82歳で亡くなっている。
なお、ラマンの甥の一人であるスブラマニアン・チャンドラセカール(Subrahmanyan Chandrasekhar)が、やはりノーベル物理学賞を受賞している。チャンドラセカールは1910年、英国の統治下にあったラホール(現パキスタン領)に生まれ、1930年にラマンも卒業したマドラスのプレジデンシー大学を卒業の後、英国ケンブリッジ大学に留学、1933年に学位取得、1937年に米国シカゴ大学およびヤーキス天文台研究員となって天文学に関する研究を進めた。1953年に米国籍を取得し、1983年に「星の構造と進化にとって重要な物理的過程の理論的研究」でノーベル物理学賞を受賞している。
この様に歴史的に華々しい成果を誇るインドであるが、残念ながら上記の2人のノーベル賞受賞以降、科学技術三分野でのノーベル賞受賞はない。
ITなどの人材養成に特化している現在のインドの科学技術状況から見ると、当面は科学技術三分野でのノーベル賞受賞は困難と想定される。科学者の数や論文数などはかなりレベルアップしているが、ノーベル賞の受賞が見込まれる基礎科学技術分野での傑出した成果が少ないからである。