「競争」「知識」「包括」を解き放つ戦略~インド科学技術政策の展望①

2022年11月24日

松島大輔

松島大輔(まつしま だいすけ):
金沢大学融合研究域 教授・博士(経営学)

<略歴>

1973年金沢市生まれ。東京大学卒、米ハーバード大学大学院修了。通商産業省(現経済産業省)入省後、インド駐在、タイ王国政府顧問を経て、長崎大学教授、タイ工業省顧問、大阪府参与等を歴任。2020年4月より現職。この間、グローバル経済戦略立案や各種国家プロジェクト立ち上げ、日系企業の海外展開を通じた「破壊的イノベーション」支援を数多く手掛け、世界に伍するアントレプレナーの育成プログラムを開発し、後進世代の育成を展開中。

読者の方々は、Unleashing India's Innovation(ISBN:978-0-8213-7197-8)という本を覚えておられるだろうか。Mark Dutzが著者・編者となり、2007年発刊でToward Sustainable and Inclusive Growthと副題がつけられたこの本は、まさにインドの衝撃であったのを覚えている。それまでインドの科学技術政策をこれだけ詳述したレポートを寡聞にして知らなかった。そしてインドの底力、ポテンシャルを説得させられたものである。"Unleashing"というワーディングの、そういう意味ではインドが未だ潜在性を完全に出し切っていないというところにも興味をもったものであった。今から15年前のレポートであるが、その後のインドの台頭、そして国際情勢の変化のなかで改めて検討の俎上に載せてもよいだろう。ここでは、インドの科学技術政策について、かつて新興5カ国(BRICS)の一角として台頭しつつあった頃のインドと、新興国として、現下、確固たる地位を占めるに至ったインドを比較しつつ、インドの科学技術政策に関する今後の展望を占うこととしたい。

この"Unleashing India's Innovation"で語られているのは、以下の3つの戦略である。

1点目は、インドは、より強力な熟練の技術、よりよい情報インフラ、そして更なる官民のファイナンスによってもたらされる投資環境の改善により、競争環境の拡大から利益を享受する。

2点目は、インドは、既存のグローバルな知識やローカルな知見のより広く拡散することに加え、新たな知識創造や商業化、さらに中小企業が知識を吸収する能力を向上させるための一層の努力を進めることにより、利益を享受する。

3点目は、インドは、貧困層に向けた更なる研究開発とこれら貧困層が更なる創造的な草の根の努力が加速され、非公式な企業による既存知識の活用の能力が向上することにより、より包括的なイノベーションを助長することによって、利益を享受する。

つまり、この3つの戦略は、「競争」「知識」「包括」の3つのキーワードで要約することが可能である。そして、実は現在のインドのモディ政権は、これらを実際に「解き放つ」ための戦略を掲げて政権運営を進めていると見ることが出来る。

2014年に誕生したナレンドラ・モディ(Narendra Modi)首相の科学技術政策はいかなるものか。彼の経済政策を語るうえで、最も重要な施策は、「メイク・イン・インディア("Make in India")」である。非常に直截な国内誘致戦略である。そこでは、技術移転の促進、イノベーションの促進、知的財産保護を目指すなどの措置によって、インド国内における製造業の活性化を目標に掲げ、政策的支援を充当している。先に言及した生産連動型優遇策(PLI:Production Linked Incentive)はその好例である。その前提に、「ビジョン2020」では、技術能力向上を図ることによって、農・工・サービス業の生産性を向上させることがうたわれている。また教育レベルを早急に上げ、技術イノベーションの開発と活用を早める等が示された。さらにインドの発展に向けた長期国家計画である「第12次5カ年計画」では、研究開発部門への投資の対国内総生産(GDP)比を2%以上に拡大することを鮮明にしたほか、知識集約の基盤を拡充するため、研究開発拠点を4倍にすることを目指している。特に、生産性が比較的低い研究開発分野について、その促進を図るとともに、海外に移住しているインド人を国内の研究開発職に呼び戻すための回帰戦略を採用するほか、基礎研究投資に関しても、エネルギー、食料安全保障、医療、水資源等の分野を重点に掲げ、これら国民生活の根幹に関わる分野での研究に注力することを目指している。

「競争」という1つ目のキーワードについて、メーク・イン・インディア政策は、2000年代の世界秩序を前提とした「競争」とは質的に異なる「競争」の土俵を創造するものとみることができるだろう。世界貿易機関(WTO:World Trade Organization)体制華やかなりし頃、2000年代の世界は自由貿易主義によって、世界がハッピーになるという「幻想」で満たされていた。その挫折を受けて台頭した開かれた地域主義による自由貿易協定(FTA:Free Trade Agreement)や経済連携協定(EAP:Economic Partnership Agreement)のネットワークでも、2010年代までは、未だその自由貿易主義の残滓が残っていたとみるべきであろう。しかし新型コロナウィルス感染症のパンデミックとウクライナ危機を経験した2020年代、現下の国際情勢では、大きく閉じた国民経済主義が再台頭している可能性がある。メーク・イン・インディア政策ではまさに、こうした期せずして、この新しい国際秩序に整合的な政策パッケージになるかもしれない。

また「知識」という点でも、モディ政権は、大きな変化を読み取ることができる。知識集約や技術移転についても政策的な措置を強化しつつあり、メーク・イン・インディア政策に謳われている知的財産保護基盤を前提とした技術移転はその意味で重要である。また第12次5か年計画で示されたような、研究開発部門への投資でGDP比2%という政策目標は野心的な政策目標である。参考の表に見る通り、インドは世界第5位の政府の研究開発費を拠出しているが、現状ではGDP比1%にも満たない。また研究開発拠点4倍増など、具体的な知識集約拠点の拡充に向けた政策的展開が期待できるうえに、インドのイノベーションを解き放つために必要な措置である。"Brain Driven(頭脳流出)"という言葉は、インドにおいては、大変深刻な事態として認識されている。従来のインドといえばIT産業と見做されてきた産業構造は、たしかにインドにとっては大きな競争優位を築いてきたことは事実である。しかし、IT産業の産業規模や雇用吸収力などの観点で、広がりを持つためには更なる戦略が必要となっている。優秀なインド人が母国に戻るにはどうしたらよいか。中国の「海亀」(母国に戻り起業する若者の愛称)よろしく、インドにおいてもこうしたUターン人材をどのように促進させるか。この人財回帰が大きな戦略となり、モディ政権も注力しているところである。

さらに、「包括」対策、或いは貧困層の底上げという観点でも、モディ政権の取り組みは、包括的成長(Inclusive Growth)を志向している。かつて著者が米国に留学しアマルティア・セン(Amartya Sen)教授の授業を取っているとき、先生から包括的成長に関する示唆を賜った。ご案内の通り、セン教授は1998年にノーベル経済学賞をアジアで初めて受賞しており、その授賞理由が、「経済の分配・公正と貧困・飢餓の研究」であった。貧困の問題というのは、人々のケーパビリティ(Capability:潜在能力)の構築に政府が積極的にコミットする必要があるという点で、インドの取り組みは挑戦的になるだろう。例えばモディ政権以降、インド工科大学(IIT:Indian Institute of Technology)について、7つのIITが開学することとなった。IIT出身の知人によれば、自分が少年の頃は、未だ家に土間があり、土の上で生活していたが、IITを卒業したことで、世界を股にかけて活躍するようになったという趣旨の述懐をしていたのを鮮明に覚えている。こうした目がキラキラした若い将来楽しみな「人財」と出会うことが、インドを訪問する喜びの一つであるが、これがインドの底力を解き放つ、最大の弓の弦(つる)となるだろう。インドの若い才能をどのように育成していくか、今後このシリーズでも言及していく。

順位 予算
(単位:10億ドル)
R&D費用の対GDP比
1位 中国 29,010.7 1.98%
2位 米国 20,145.1 2.88%
3位 日本 5,174.2 3.5%
4位 ドイツ 4,283.5 2.84%
5位 インド 9,991.1 0.86%