大気汚染、呼吸器疾患のリスクレベルに─人口世界1・インドの悩みは解消されるのか

2024年2月16日

杉山文彦(すぎやま・ふみひこ):
ジャーナリスト

<略歴>

時事通信社のニューデリー特派員、カイロ特派員としてインドをはじめ、アフガニスタン内戦や中東情勢など途上国の問題を幅広く取材。パリ支局長、外信部長、編集局総務を歴任し、2016年から解説委員。編著に『世界テロリズム・マップ 憎しみの連鎖を断ち切るには』(平凡社新書)など。


総人口14億1713万人(2022年世界銀行推計)と、中国を抜いて世界1の人口大国になったインド。その首都ニューデリーは近年、特に乾期の11月から2月にかけて深刻な大気汚染に見舞われることが常態化し、2024年に入っても、健康な人が呼吸器疾患を発症するような危険レベルで推移している。

インドの深刻な大気汚染
(資料写真)

筆者はかつてニューデリーに3年半駐在していたが、近隣諸国への出張から戻る途中、飛行機が空港へ着陸する前に上空からこの街を見下ろすと、多くの煙突から煙がもくもくと立ち上り、街がどんよりと灰色にかすんでいることがよくあった。こんなところでいつも暮らしているのかと、がく然となったものだ。実際、筆者の後に駐在した知り合いの日本人記者の中には、インドから帰国した今もなお、ぜんそくに悩んでいる人がいる。

問題解決に向けて、インドのモディ政権とデリー首都圏(National Capital Region=NCR)政府は、最新の「人工降雨」技術を利用する対策を準備している。中国を経済力でも凌駕しようという野望を持つインドにとって、大気汚染問題は悩みの種の一つなのだ。

最も深刻「ステージ4」

ニューデリーで最近、街全体を大気汚染による濃厚なスモッグが覆ったのは2023年11月上旬のことだった。デリー首都圏と周辺地域を所管する大気質管理局(CAQM)は緊急通達を出し、10月6日に改定したばかりの段階別行動計画(GRAP)に基づいて対策を強化した。

そのベースになるのは、粒子状物質 (PM 10)、微小粒子状物質(PM2.5)、一酸化炭素 (CO)、オゾン (O3)、二酸化窒素 (NO2)、二酸化硫黄(SO2)などの化学物質による大気の汚染度を1~500の数値で示す大気質指数(AQI)だ。

通達によると、AQIの値は11月4日午後4時ごろ、首都圏で415と、深刻な「ステージ3(401~450)」へ急上昇した。さらに翌5日午後2時、AQI は461と、最も深刻な「ステージ4(450以上)」に達した。ステージ4というのは、健康な人でも呼吸器疾患に陥りかねない極めて危険なレベルを指す。危険が高まったのを受けて大気管理局は同日、GRAPに沿ってステージ4用の緊急対策を直ちに適用した。これには以下の措置が含まれる。

  1. ア  デリー首都圏へのトラックの入境禁止(生活必需品の運搬車と電気自動車などは除く)
  2. イ  デリー首都圏外で登録された小型商用車の首都圏への乗り入れ禁止
  3. ウ  中型・大型商用車のデリー首都圏内での走行禁止
  4. エ  デリー首都圏内での道路や橋梁などの建設工事の禁止

また住民の健康維持のため首都圏の小中学校の対面授業を中断し、オンラインに切り替えることや、会社員、公務員への在宅勤務の奨励なども打ち出された。

人工降雨で1週間救済可能

こうした通常の対策に加え、画期的な解決策になると期待されているのが「人工降雨」だ。上空の雲に飛行機やヘリコプターからヨウ化銀(Agl)やドライアイスを散布する「クラウド・シーディング(雲への種まき)」の手法で雨粒をつくる。大量の水蒸気を含む曇天という気象条件が前提だ。自然の降雨時でも大気汚染度が低下することは確認されている。

インド工科大学(The Indian Institute of Technology=IIT)カンプール校が大気汚染対策として人工降雨を提唱し、2018年からプロジェクトを進めてきた。首都圏政府のゴパール・ライ(Gopal Rai)環境相も2023年9月、乾期の大気汚染対策の一つとして人工降雨を採用する方針を発表していた。

11月5日にAQI が「ステージ4」に達した後、ライ氏らはIITの専門家らと人工降雨の実施について協議した。インド紙エコノミック・タイムズ(The Economic Times)によれば、IITカンプール校コンピューター科学工学部のマニンドラ・アグラワル(Manindra Agrawal)教授は同紙に対し、人工降雨は首都圏の住民にとって1週間程度の一時的な救済手段となる可能性があると指摘している。

温暖化進行で再評価

人工降雨の開発の歴史は半世紀以上前にさかのぼる。第2次世界大戦後にクラウド・シーディングの実験に成功した米国は、この技術をベトナム戦争で軍事利用した。英王立国際問題研究所(RIIA、チャタムハウス)の報告によると、米空軍は「ポパイ作戦」と名付けたクラウド・シーディングによる人工降雨を1967~72年にベトナムとラオスで極秘に実施し、計画通り一帯の雨季を長引かせた。それによって道路がぬかるみ、米軍と戦う「南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)」の軍事行動が困難になったのは事実だ。

ところがこの気候改変の影響で、洪水による人命損失や農作物の被害なども多発した。これを教訓に、国連軍縮委員会の協議を経て1978年、環境改変技術敵対的使用禁止条約(Environmental Modification Convention =ENMOD)が発効し、米国、中国、ソ連(当時)を含めて軍事目的の人工降雨が禁じられた(日本での条約発効は1982年)。

その後、地球温暖化が進行したため人工降雨技術が改めて見直された。世界気象機関(WMO)によれば、インドを含めて現在50以上の国が人工降雨利用に取り組んでいる。中国は2025年までに国土の半分以上で気候改変を可能にする計画だ。

自然改変で悪影響も

デリー首都圏政府はIITカンプール校の協力を得て人工降雨を2023年11月20日または21日に実施する予定だったが、AQIの数値が低下し、計画は延期されている。

インド紙ヒンドスタン・タイムズ(The Hindustan Times)が12月20日に報じたところでは、首都圏政府の環境省当局者は「計画を取りやめたわけではなく、その他の対策が奏功し、11月末以降は大気質が次第に良好になってきていることから、現時点では必要ない」と述べるとともに、「11月初めに見られたように状況が極めて深刻化したときのみ、人工降雨を実施に移す」と述べた。

首都圏の大気汚染は、石炭火力発電、建設現場の粉塵、車の排気ガス、近郊農家の野焼き、ヒンズー教の祭りの爆竹まで含めた複合的要因によるものであり、交通量規制などの通常の対策だけで大幅に状況を収束させることは難しい。

近年、インドで大気汚染が劇的に改善されたのは2020年春、新型コロナウイルスのパンデミック(大流行)に伴うロックダウン(都市封鎖)で外出が規制されて交通量が激減し、工場閉鎖、航空便の運航停止なども実行された一時期だけだ。

そのときは、ニューデリーに近いインド北部のパンジャブ州から200キロ近く離れたヒマラヤ山脈が数十年ぶりに見えると話題になった。ところがコロナ禍が収まると、元通りのひどいスモッグが戻ってきた。

中国と違ってインドでは人口増加が続くと予想されるだけに、経済活動がさらに活発化することは確実だ。大気汚染の危険度が高まれば、今回提案された人工降雨も選択肢の一つにならざるを得ないだろう。とはいえ、人為的な自然の改変による悪影響も考慮する必要がある。クリーンエネルギーの利用や公共交通システムの整備が今後の課題になりそうだ。

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