インド工科大学デリー校でのスタートアップ・インキュベーターについて

2025年1月10日 藤原 孝男(JSTアジア・太平洋総合研究センター 特任フェロー)

1. はじめに

2023年時点での日本の平均年齢が48.4歳なのに対し、インドは同28.2歳で、今後40年間は人口増加が見込まれ1、人口ボーナスを享受できる。反面、インドの平均寿命は、過酷な生活衛生環境や医療の遅れなどから68.3歳と、日本の83.7歳に比べると15.4年も短く2、医療費・社会保障費の負担は相対的に低い可能性があるとしても、生活の質向上が今後の課題となる。こうして、日印ともに基礎研究成果の社会実装を通じた経済的価値創造が求められ、ここではインドの名門校であるIIT Delhi(Indian Institute of Technology Delhi:インド工科大学デリー校)でのインキュベーションに注目する。

2. IIT DelhiとDMS

IIT Delhiの設立は、1961年で、IIT23校の中では5番目に開設されている。2022年度の教員数は687名で、在籍学生数は学部4,971名、修士課程3,568名、博士課程4,004名の計12,543名3である。創立以来、約60,000名が卒業し、その内、学士号取得者15,738名、博士号取得者5,070名で残りは修士号取得者である4。学部教育にも注力しているが、入学の厳しさに加えて、全段階での在籍者数に比較して学位取得者数の比率が低く狭き出口となっている(e.g. 2022年度博士号取得者数は376名)。アカデミック組織としては①応用機械工学、生物化学工学・バイオテクノロジー、化学工学、コンピュターサイエンス・エンジニアリングなど16学部・研究科(Department)、②応用電子工学研究、大気科学など11センター(Centre)、③学部・研究科からも一部教員が兼務する生物科学、人工知能など6研究科(School)、④産業界が支援する気候変動・大気汚染などの9中核的研究拠点(Centre of Excellence:CoE)から構成されている。

2023年の研究刊行件数は、Scopus 4,237、Web of Science 2,499である。2024年11月18日時点での総刊行件数はScopus 58,265、Web of Science 38,166、総引用件数はScopus 1,128,574、Web of Science 811,927、Total H-IndexはScopus 277、Web of Science 2375でグローバルな研究の生産性・引用件数の向上に力を入れている。卒業生には、サン・マイクロシステムズ共同創業者で著名ベンチャーキャピタリストのVinod Khosla6、eコマースFlipkartCEO(Chief Executive Officer:最高経営責任者)のSachin Bansal、食品デリバリーZomatoCEOのDeepinder Goyalなどの各氏が含まれ、国内外のスタートアップでの成功者も多い。

同校内の経営学研究科(Department of Management Studies:DMS)は1993年の設立で、現在、博士課程と、マネジメントシステム専攻の2年間フルタイムのMBA(Master of Business Administration:経営学修士号)コース、テレコミュニケーションシステム専攻の2年間フルタイムのMBAコース、テクノロジーマネジメント専攻の3年間の夜間パートタイム(キャンパスオンサイト)のMBAコースとがある。現在の教員数は39名、在籍学生数は修士課程が194名、博士課程が177名の大学院生のみの構成である。教員の専門領域としては、①経済学、②ファイナンス、③情報システム、④マーケテイング、⑤生産管理、⑥組織管理、⑦戦略管理の7領域に分かれ、理工系単科大学のビジネススクールとしては科目が豊富である。

Sushil名誉教授によると、教育省イノベーション室(MoE-Ministry of Education-'s Innovation Cell)による「2019年学生・教員向け国家イノベーション・スタートアップ政策(National Innovation and Startup Policy 2019 for Students & Faculty)」の下でIISc(Indian Institute of Science:インド理科大学)・IIT Delhiをはじめ全国的な主要大学のインキュベーターに指針も示されており、政府はディープテックスタートアップによる研究成果の社会実装に積極的である。インドはG20とグローバルサウスの両方のメンバーであり、先進国と新興・途上国の両方の連結ピンとして世界的な主導権を発揮できる。また、インド国内では都市部の中間層の拡大によって子供の数が低下しており、将来的には人口の安定化が予測される。経営学研究科では、MBAコース在籍学生の数の方が多いが社会人学生も含めて博士課程在籍学生数も比較的多い。工学の情報・エネルギー系の教員と一緒に博士論文の指導を行うことも多い。また、政府の若手官僚が大学院生として所属することもあり、政府の委員会、産業界との協力、インキュベーターの運営、実務家教育などにも積極的に参加し、社会貢献しているとのことである。

3. FITTによるIIT Delhiインキュベーション

IIT Delhiの産学連携組織としてのイノベーション技術移転財団(Foundation for Innovation and Technology Transfer:FITT)の設立は1992年で、IIT Delhiの設立から31年の時間が経過している。しかし、2016年に23番目のIITとして設立されたIIT Goaの場合では、2018年の教育省イノベーション室設立の影響もあり、学内に産学連携組織の機関イノベーション室(Institution's Innovation Council:IIC)が2019年にわずか3年のタイムラグで設立されており、国政による近年の基礎研究成果の社会実装の重視が理解できる。FITTはIIT Delhiの1986年の評価委員会の勧告を受け、1992年の構想以来、大学内の科学・技術的知識の事業化を促進してきた。現在の運営組織としては、①FITT理事会(Governing Council)の構成メンバーとしてIIT Delhi学長(Director)やR&D担当部長(Dean)を中心とする教員、インド工業連盟(Confederation of Indian Industry: CII)、全国ソフトウェアサービス企業協会(National Association of Software and Services Companies:NASSCOM)、企業幹部、VC(Venture Capital)などから計13名、②技術事業インキュベーターユニット(Technology Business Incubator Unit)の役員会(Board)では学長をトップに外部役員も含め計9名の各構成である。

インキュベーションへの支援では政府の電子・情報技術省(Ministry of Electronics & Information Technology:MeitY)、科学技術庁(Department of Science and Technology:DST)、バイオテクノロジー産業研究支援協議会(Biotechnology Industry Research Assistance Council:BIRAC)などからの助成も受けている。主な活動内容としては、①技術開発・事業化に向けての研究提携、②証明されたR&D成果の技術移転、③知的財産管理、④産業界への技術相談対応、⑤産業界・R&D機関への情報支援、⑥専門家養成プログラム、⑦FITTへの法人会員の勧誘、⑧革新的アイデアの事業化への資金的援助、⑨技術的スタートアップの創業支援などである。

スシール名誉教授(右Emeritus Prof. Sushil, Previous Chairman)
2024年1月18日(木)IIT Delhi、DoMSにて

現在までの主な成果としては、トレーニングプログラム500件以上、産業協力2,100件以上、開発プロジェクト600件以上、知的財産申請1,400件以上(特許1,300件以上)、技術移転185件以上、創業支援170社以上である。現在入居のスタートアップ例として、アグリテックではIndigotexの1社(1.96%)、AI(Artificial Intelligence:人工知能)・ML(Machine Learning:機械学習)・IoT(Internet of Things:インターネット遍在化技術)・サイバーセキュリティではCompiler AIをはじめ6社(11.76%)、自動車ではTadpoleをはじめ9社(17.65%)、バイオではFruvetech をはじめ5社(9.80%)、クリーンテックではQuanteon Powertrainをはじめ15社(29.41%)、ドローンではVECROSをはじめ2社(3.92%)、エドテック(Ed-Tech:教育支援技術)ではNeo Risersの1社(1.96%)、ヘルステックではMedicTech(後述)をはじめ6社(11.76%)、IT/ITエンジニアリングサービスではCyran AI Solutionsをはじめ6社(11.76%)の計51社(100%)である。デリー都市部の大気汚染を意識してかクリーンテックの割合が高い。

FITTのCOO(Chief Operating Officer:最高執行責任者)であるNaveen Gopal退役大佐(IIT Delhiにて集積回路設計の修士号取得)によると、第一に、FITTの70人のスタッフで、知的財産・共同研究開発・インキュベーションを担当している。第二に、総数170社(内部企業が51社)の事業割合としては、AI・EV・自動運転・宇宙などが65%、生命系が20%、農業・環境系が15%の比率としている。第三に、2024年には生命系スタートアップを60社以上収容できる施設を建設予定とのことである。第四に、アカデミックな研究だけでなく創業意欲の旺盛な教員も多数いるようである。こうして、IIT Delhiには医学部はないが、バイオ系スタートアップの増加を計画している可能性がある。

ナヴィーン・ゴーパル退役大佐(左Retd. Col. Naveen Gopal, COO)
2024年1月18日(木)IIT Delhi, FITTにて

4. FITTインキュベーター内スタートアップ企業のMedic Tech

メディックテック社(Medic Tech Private Limited)は、FITTインキュベーター内で、商工省(Ministry of Commerce and Industry:MCI)産業国内取引促進局(Department for Promotion of Industry and Internal Trade:DPIIT)認定スタートアップ企業として政府資金プロジェクトを遂行する医療機器開発企業である7。同社は、ナノテクノロジー、医療技術、認知科学、環境科学という広範囲な専門分野に関心を持ち、先進的な材料製造機械としての統合的プラットフォームの開発を目指している。試作品は、様々なナノ物質の合成に関する自動機械で、使用が容易で、迅速、低コスト、柔軟、時間的にも精確という特徴を有するとのことである。

CEOや主任エンジニアによると、第一に、会社の沿革としてはIIT Delhiとは直接関係はないが、同校のインキュベーター施設に入居し同校ブランドや内部のインフラを活用して医療用のナノ物質(分子医薬)の処理の再現性を確保できる生産システムを開発・試作し、国際特許も有しているとのことである。機械作動の試運転は見ていないが、試作機の機構の説明を受け、外観を観察できた。第二に、CEOは医師免許を有し、医学とナノテクノロジーの学位を有する子息と、化学の学位を有する別の子息と一緒に会社を起業している。人柄は親切ではあるが高齢のCEOの発言権が強そうな印象を受けた。家族以外の研究者も複数在籍し全員忙しそうではあったが、もう少し若手に自由に発言させ、マーケテイングにも注力した方が会社の雰囲気が活性化するようにも思った。第三に、CEOの妻も医師をしており、経済的にも支えているようであったが、特許も公開されており、新規の市場として日本の医療機器メーカーや商社とのライセンス供与・販売面での提携を望んでいるとのことである。

右から2人目:インデル・クマール・グプタ医師(Dr. Indel Kumar Gupta, CEO)
左から2人目:イシュ・シングハル博士(Dr. Ishu Singhal, Director)
2024年1月18日(木)Medic Techにて
(画像は全て筆者提供)

5. まとめ

IIT Delhiの立地はインディラ・ガンディー国際空港から近く、官庁街など都市中心部への移動も道路・地下鉄ともに便利である。IIT Delhi発のスタートアップは学内インキュベーターの他に、近郊のグルグラム(Gurugram)やノイダ(Noida)にも集積し、DMSによる起業家ネットワーク活動も実施されている。IIT Delhiへの入学合格率は1~2%水準のようではあるが、厳しい学部卒業後の上位5~10%はさらにアメリカの有名大学院に進学するとのことである。多くの若年人口の中から、入学・卒業の過酷な選抜競争を経た優秀な人材を求めるそのようなスクリーニングシステムのおかげで、日本人のイメージする数学以外にも全ての教科に対して能力を発揮するとのことである。実際にIIT DelhiのDMSの博士課程学生の論文では「学風」なのか派手さよりも地道で高度な数理・統計解析を徹底的に行うものが多い。

インドとアメリカとの間では大学・大企業・VCの各組織を横切って、キーパーソンの頻繁な接触・移動が見られ、インドの経済成長につれ子供の成人期に合わせてアメリカの大学・大企業研究所から帰国する人材も多く、武者修行を経てインドでの経済発展にも今後、貢献が期待される。また、DMSのように工学系単科大学に経営学研究科を設置することによって純粋なビジネススクールのインド経営大学院(Indian Institute of Management:IIM)を補完する形で、工学系の基礎研究成果の社会実装に直接的に貢献しているようである。20年ほど前であれば日本に関心を持っている学生も多くいたが、社会実装に向けた製造業の重要性が政府によって強調されていても、現在では日本の自動車産業を中心とする「ものづくり」に強い中部地方については「日本のラストベルト(Rust Belt)8か?」という印象を持つ意見も一部に聞かれ、日印のカルチャーギャップを感じる9。故に、インドなどの世界的に優秀な人材を惹きつけるためにも、日本にもシリコンバレーに匹敵する魅力的な社会的実験の場としてのディープテックスタートアップ・エコシステムを構築する必要があると思われる。

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