オーストラリアの国防意識の強さ、科学技術振興に一助

2021年6月21日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで):国際科学技術アナリスト

<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業

<略歴>
平成18年1月 文部科学省文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構研究開発戦略センター上席フェロー
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団理事長(現職)

はじめに

現在日本の周りのインド・太平洋地区は、中国の軍事的な台頭もあって、米国、インド、オーストラリアと日本によるクアッドの議論がかまびすしい。このクアッドの議論でオーストラリアが注目を浴びているが、実は同国は非常に強い国防意識を有することを、日本人はあまり知らない。私見であるが、この強い国防意識がオーストラリアの科学技術振興の一助になっていると考えている。

国の成り立ち

オーストラリアに英国の植民地建設が始まったのが1786年であり、1788年から入植が開始されている。この20年ほど前の1770年に、有名なキャプテン・クックが現在のシドニー湾に近いボタニー湾に到着し、英国領を宣言したのがその始まりである。その後、羊を育てて羊毛を生産して英国に輸出することによって経済が発展し、大陸内に次々と植民地が建設された。さらに1851年に金鉱が発見され、米国と同様のゴールドラッシュでにぎあうこととなった。このゴールドラッシュを契機に、英国を中心としたヨーロッパ諸国からの移民が激増した。1901年にオーストラリア大陸にあった6つの植民地が合体して、大英帝国の枠内でオーストラリア連邦が結成された。現在でも国家元首は英国国王であり、国王の代理が総督として派遣されている。

オーストラリアの科学技術の現状

現在オーストラリアは、人口約2,500万人(日本の約5分の1)、国内総生産(GDP)1.4兆米ドル(日本の約4分の1)であり、先進国ではあるが典型的な中規模国といえる。研究開発費総額で見ても同様である。

しかし、科学技術力に関係する論文などの指標や国際大学ランキングで見ると、米国、中国、日本、欧州主要国などの国々に伍して競争しており、これを最近のデータで少し具体的に見たい。

2020年8月、文部科学省科学技術・学術政策研究所が公表した「科学技術指標2020」によれば、2016年から2018年に発表された論文数で、日本が第5位であるのに対しオーストラリアは世界第10位となっている。しかし、被引用数を考慮して優れた論文数のみで比較するトップ10%論文数では日本が第11位に対してオーストラリアは第7位、さらにより優れた論文となるトップ1%論文数では日本が第12位に対してオーストラリアは第5位となっている。国の規模や研究費などを考慮すると、極めて優れていることが分かる。

次に、大学の国際的な評価基準となっている「QS大学ランキング2021」のトップ100位以内の大学数を見ると、キャンベラにあるオーストラリア国立大学(ANU)を筆頭に6校が入っているのに対し日本は東京大学を含めて合計5校であり、ここでもオーストラリアは日本の上位にある。

科学技術の先進性の要因としては、宗主国であった英国の科学の伝統を受け継いでいるとともに、国民の中に根付いた国防意識があると筆者は考えている。

オーストラリアの安全保障

日本の20倍もある国土に日本の5分の1の人口しか住んでおらず、大陸ではあるが外敵の侵入可能な非常に長い海岸線を有しているため、オーストラリアだけで自国を防衛することは極めて困難である。幸いなことに、オーストラリアの建国後19世紀を通じて本国たる英国はその絶頂期にあり、海軍をはじめとして英国の軍事力は絶大なものがあった。したがって、オーストラリアの安全保障は自らの軍隊を持ちつつも英国に依拠し、英国の軍事的な活動を側面協力することによって軍事的な危機の際に英国の助力を受けて防衛するという基本戦略を取ってきた。

歴史的敗北の日を国民の祝日に

英国が軍事的な行動を行った際には、スーダンへの兵士の派遣(1885年)や、南アフリカでのボーア戦争(1899年~1902年)への参加など、率先して英国の軍事的な行動に参加している。第一次世界大戦でも同様の考えから軍事行動に参加することとなり、1915年、オーストラリアはニュージーランドとともに、アンザック(ANZAC)軍をオスマン・トルコのガリポリ半島に派遣した。結果は約2万6千名もの死者を出す大敗北であった。これがいかに大きなものかは、米国の朝鮮戦争全体の死者が約3万6千人であったことからも分かる。しかし、この戦いで愛国心を持って勇敢に戦った兵士の姿が国民のナショナリズムの原点となり、後に作戦決行の日である4月25日は「アンザック・デー」として、戦死者を追悼し、その功績をたたえる祝日となっている。

現在の安全保障

第一次大戦前後からオーストラリアの仮想敵国となったのは日本であり、それが現実のものとなったのは、太平洋戦争の勃発である。開戦直後に日本軍は、英国の最大のアジア防衛拠点であったシンガポールを陥落させ、オランダ領であったインドネシアをほぼ占領した。さらに1942年2月、日本軍はオーストラリア北部の都市ダーウィンに空爆を行い、壊滅的な打撃を与えた。オーストラリアは、英国依拠から米国に依存して国防を確保することに変換し、フィリピンから退却してきたマッカーサー将軍率いる米国軍の前線基地がオーストラリアのブリスベンに置かれた。

第二次大戦後、オーストラリアの安全保障政策は、米国への依存がより増大することとなっていく。オーストラリアは、米国との軍事的な協力を緊密なものとするため、朝鮮戦争やベトナム戦争に参戦するが、1973年の米国軍のベトナム撤退を受け、米国依存の安全保障体制の軌道修正が図られ、米国との協力を基軸としつつも、アジア近隣諸国との共存を前提に安全保障を目指している。今回のクアッドへの参加もその一環である。

なお、自国の軍隊のみで自国を守っていないからと言って、オーストラリア人の軍事的な能力を侮ってはならない。オーストラリア人は極めて勇敢であり、第一次・第二次大戦を通じ、英国空軍の優秀なパイロットには、オーストラリア出身者が数多くいたと言う話もある。

国防意識の科学技術への影響

このように建国以来、英国や米国とともに世界での戦争に参加し、また自らの領土を日本軍に空爆された経験を有し、大敗戦の日を祝日にしているということを考えると、自らの国を守るというオーストラリアの国民的な気概は非常に大きなものである。

国防能力を高めるためには科学技術力の強化は必至であり、最近も科学技術と安全保障を結びつける重要な考え方がオーストリア政府から出された。具体的には、2020年5月に公表された、オーストラリア軍の防衛能力を維持強化するための戦略である「防衛科学技術戦略 2030」(Defence Science and Technology Strategy 2030)がそれである。この戦略には「More, Together(さらに、一緒に)」という副題が付されており、国防における科学技術の重要性をオーストラリア国民に強く訴えかける内容になっている。

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