長い間、うつ病に苦しんでいる人々にとって従来の薬は効く効かないにかかわからず、挫折感を抱かせるだけのものかもしれなかった。だが、サイケデリックス薬が新しい解決策となるかもしれない。(2023年5月19日公開)
うつ病を治療するためにトリップしてみる気はあるだろうか? 車や飛行機に乗るトリップではなく、錠剤や腕への注射のことである。とんでもない話に聞こえるかもしれないが、科学者たちはまさにその可能性、つまりサイケデリックス薬として知られる向精神薬でうつ病を管理する方法を調べている。
「マジックマッシュルーム」から、リゼルギン酸ジエチルアミド (LSD) 、ケタミンに至るまで、これらの物質がどのように機能するのか、また、現在何百万人もの人々が苦しんでいる精神障害の原因である神経の結び目を元に戻すことができるのか、科学的関心が高まっている。 サイケデリックス薬は、私たちの思考、気分、感覚に一時的ではあるが強力な変化をもたらすことで知られている。それらは主に幻覚剤として知られており、視覚的・聴覚的体験を提供するが、多幸感、落ち着き、感覚的意識の高まりを生み出すこともできるため、多くの国でレクリエーションドラッグとして合法非合法を問わず人気がある。
ただし、サイケデリックス薬の効果は両刃の剣となり得る。千葉大学社会精神保健教育研究センター 副センター長で臨床神経科学者である橋本謙二教授は、ケタミンが哺乳類の脳に与える影響を10年以上研究してきた。
橋本教授はAsian Scientist Magazine誌に対し「ケタミンには強力な抗うつ効果がありますが、繰り返し使用すると、統合失調症で見られるものとは異なる精神病、解離、体外離脱などといった重篤な副作用を伴う乱用や依存症につながる可能性があります」と語る。
橋本教授やほかの研究者が実験室でマウスを使い実施するケタミン研究から、ケタミンは、メタンフェタミンなど中毒性のある薬物と同様、幸福感を出す神経伝達物質であるドーパミンの洪水を放出する脳の部分を利用することが分かっている。そのため、ケタミンは 1970年代から外科麻酔薬としての安全な使用が承認されているが、ほとんどの国では厳しい管理の対象となっている。
前述のリスクがあり、うつ病には他の薬もあるにもかかわらず、サイケトリックス薬を重視する研究者は増えてきている。「うつ病の問題は、多くの抗うつ薬がありながら、多くの患者の医療ニーズを満たしていないことです」と橋本教授。「その一方、ケタミンの抗うつ効果は、過去 60年間のうつ病研究における最大の進歩かもしれません」
世界中で約2億8,000万人がうつ病にかかっている。それは単なる「気分の落ち込み」ではない。疲労感、孤立感、自尊心の低下、絶望感、日常生活での喜びの喪失、自殺願望などが続き、身体はうまく動かず、生命を脅かすことさえある。ある患者にとっては回復と再発の繰り返しであり、別の患者にとっては慢性的な病気である。
うつ病の治療でのアンメットニーズの1つは即効性である。選択的セロトニン再取り込み阻害剤 (SSRI) やセロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬 (SNRI) などの標準的な薬剤が使用されている場合、通常は効果が現れるまでに少なくとも 2週間かかる。大うつ病性障害 (MDD) などの症状に悩む患者の場合、2週間は長すぎるかもしれない。ベッドから出る行為をエベレスト山に登るように感じる脳であれば、十分に効果が出るまで定まったスケジュールで錠剤を服用することは難しいかもしれない。
さらに、研究は、現在の抗うつ薬は患者の3分の1には効果がないと推定している。橋本教授は「SSRI と SNRI は人間の脳内のセロトニン受容体を利用しますが、うつ病のすべての症例がそのメカニズムに関与しているわけではありません」と述べる。
橋本教授は、重度のうつ病の人が自殺念慮を伴う危機的な状況にあれば時間が重要であるが、従来の抗うつ薬の効果は遅効性であるためほとんど役に立たないことを付け加えた。
橋本教授は、ケタミンなどのサイケデリックス薬は、このような治療ギャップを埋める手段となるかもしれ何と考える。2000年以来、米国のエール大学やその他数多くの機関により行われた臨床試験から、他の抗うつ薬の恩恵を受けなかった患者に対しケタミンは「迅速に作用し、持続的な抗うつ効果」をもたらすことが示された。
製薬会社もそのエビデンスの流れに乗り始めている。2019年、米国食品医薬品局(FDA) と欧州医薬品庁 (EMA) によって、最初の商品ケタミン治療薬であるエスケタミンが治療抵抗性 MDD の成人患者向けに承認された。
サイケデリックス薬がうつ病を軽減する理論の1つとして、サイケデリックス薬がうつ病の症状に関連する脳の部分の活動をオフにして、その後再度オンにすることで脳が回路を再調整させると、人間の思考を処理する脳細胞間の健康的な相互接続が回復するというものがある。
米国マサチューセッツ総合病院(MGH)精神科神経科学センター長のジェロルド・ローゼンバウム (Jerrold Rosenbaum) 氏は、2021年のハーバード・ヘルス誌の解説で、「サイケデリックス薬は、脳を一時的に変化させ、リセットが行われ、物事に対するこれまで『動けなかった』考え方や感じ方に変化をもたらすようです」と述べた。「これはコンピューターを再起動させるようなものです」
サイケデリックス薬の医学的メリットを副作用なしに引き出すことを目的として、神経科学者たちはサイケデリックス薬が脳内で影響を与える分子、細胞、代謝機構について調べている。中にはサイケデリックス薬の化合物に「そっくり」でありながら幻覚を誘発することなく同じうつ病関連の脳受容体を標的とする分子を設計しようとしている神経科学者もいる。中国科学院のある研究チームは、LSDおよびマジックマッシュルームの標的となる重要な受容体である5-HT2Aに働く合成化合物を調べている。
橋本教授は千葉大学にある自身の研究室で、ケタミンとエスケタミン両方の代替となり、ケタミン誘導体であるアールケタミンの研究を続けてきた。 エスケタミンは現在、治療抵抗性の MDD に対して承認されているが、精神活性作用を引き起こす可能性があるため、訓練を受けた医師の指示に従い服用しなければならない。
一方、橋本教授のチームが草分けとなり実施している研究では、マウスにアールケタミンを投与するとエスケタミンよりも強力な抗うつ効果を見せるが、精神病が誘発される徴候はほとんどないことがわかった。橋本教授は「現在、米国、中国、日本で製薬会社がアールケタミンを使用するうつ病の臨床試験を行っています」と述べた。
世界の多くの地域と同様、アジアでは昔からサイケデリックス薬をいろいろと使用してきた。サイケデリックス薬のような物質については、何千年も前にさかのぼる文献が存在する。古代ヒンズー教の経典であるリグヴェーダは、植物から作る万能薬であるソーマを使用して「神の」高みに到達する経験について述べている。同様に、中国では、『楚辞』などの前漢時代の文献が霊芝(霊的キノコ)を吸収することによる幻想的な「精神の旅」を描写している。
医療での使用も、伝統の中に深く根ざしている。アーユルヴェーダ治療を行う医師は、不安やうつ病などのメンタルヘルス障害を治療するにあたりさまざまな精神作用のあるハーブを取り入れている。16世紀の中国の薬典である本草綱目は、幻覚作用を持つことが知られている10以上の薬草を取り上げている。
現代のアジアでは、国の規制当局が公衆衛生上のリスクを理由として、ほとんどのサイケデリックス薬の使用と供給を禁止している。ケタミンなどいくつかについては、医療目的で免除されており、あるいは研究を目的として厳密に管理することを条件に許可されている。
「アメリカやヨーロッパとは異なり、アジア諸国では、精神障害患者にサイケデリックス薬の臨床試験を行うことは容易ではありません」と橋本教授。動物モデルを使いケタミンに関する研究を行っているが、これは日本政府と製薬会社からの助成金によって支援されているという。
ただし、規制に関する考え方は少しずつではあるが変化しているようだ。2022年、タイの麻薬統制委員会 (NCB) は、同国のコンケン大学とパートナーシップを結び、うつ病治療のためにヘット・キー・クワイ(水牛糞キノコ)から抽出したシロシビンを含む化合物を調べる可能性について発表した。 現在、シロシビンは制限された麻薬であるが、へき地の医師は不眠症治療の薬として、その少量をこっそりと使用している。
タイ政府の発表によると、パートナーシップでの臨床試験の結果が、北米や欧州のうつ病に関する同様の研究結果と一致する場合、ヘット・キー・クワイの栽培は医療製品用に合法化されるかもしれない。
サイケデリックス薬を使った小規模な臨床試験も、多くのアジア諸国から報告されるようになってきた。2019年、インドのラーンチーに所在する中央精神医学研究所の研究者たちは、重度のうつ病患者である25人の男性に対して低用量のケタミンを静脈投与する小規模な試験を実施し、「うつ病に対する確実かつ迅速な効果がある」と述べた。 中国医科大学の盛京病院のチームは、帝王切開手術でケタミンを単回投与すると、出産したばかりの女性が産後うつ病にかかる確率を1週間以上低下させることも発見した。
シンガポールの麻薬法は世界で最も厳しいが、エスケタミン点鼻スプレーは、治療抵抗性の MDD 患者のために病院内の使用が認可されている。スプレーに代わる経口錠剤も現在、同国で臨床試験中である。
臨床試験を主導したシンガポール国立大学病院のシニア コンサルタント心理学者であるジョンソン・ファム (Johnson Fam) 氏は「うつ病の緩和におけるケタミンの臨床的有効性は、適切な投与量に依存しています。無許可の使用は有害です」と力説した。 「[治験] 患者は医師から紹介され、スクリーニングを受けなければなりません。患者は過去、薬物乱用の経験があってはなりません。錠剤は病院で直接観察されながら摂取しなければならず、家庭での使用は禁止されています」
千葉大学に話を戻すと、橋本教授のチームは、アールケタミンの分子メカニズムを探求し、パーキンソン病、アルツハイマー病、多発性硬化症など他の神経疾患にも範囲を広げ研究を続けている。
橋本教授は「抗うつ効果の背後にある分子メカニズムについては、まだわかっていないことがたくさんあります」と 指摘する。「それでも、うつ病は他の多くの病気の一般的な症状でもあるため、アールケタミンが米FDAだけでなく、日本や中国などの他の国でもうつ病治療やその他の精神障害に対して承認されることを願っています」