国際協力で発達障害の壁を破る: OIST・ゲイル・トリップ博士に聞く

2023年7月11日 聞き手 科学技術振興機構(JST)参事役(国際戦略担当) 樋口 義広

国際頭脳循環の強化は、活力ある研究開発のための必須条件である。日本としても、グローバルな「知」の交流促進を図り、研究・イノベーション力を強化する必要があるが、そのためには、研究環境の国際化を進めるとともに、国際人材交流を推進し、国際的な頭脳循環のネットワークに日本がしっかり組み込まれていくことが重要である。

本特集では、関係者へのインタビューを通じて、卓越した研究成果を創出するための国際頭脳循環の促進に向けた日本の研究現場における取り組みの現状と課題を紹介するとともに、グローバル研究者を惹きつけるための鍵となる日本の研究環境の魅力等を発信していく。今回のインタビューでは、沖縄科学技術大学院大学(OIST)こども研究所のゲイル・トリップ所長に話を伺った。

沖縄科学技術大学院大学(OIST)第4研究棟の1階にあるカラフルな部屋に、OISTこども研究所はある。ここでは、日本、ニュージーランド、ブラジル、イギリス、ベルギーの5カ国による神経発達障害の国際共同研究が行われ、特に注意欠陥・多動性障害(ADHD)に焦点が当てられている。この研究センターを率いるのは、臨床心理士でOIST教授のゲイル・トリップ博士。今回は、同博士の研究内容、日本での国際研究者としての経験、そして研究の成果を上げるための人材と知識のグローバルな循環の重要性について話を聞いた。

インタビューに応じるOIST子ども研究所のゲイル・トリップ所長

ニュージーランドの南島から日本の亜熱帯の島へ

トリップ博士はニュージーランドのセントラル・オタゴで生まれ育った。ダニーデン市にあるオタゴ大学で博士課程まで進学し、修了後は臨床心理士として公立の大きな病院で働いた。その後、教員としてオタゴ大学に戻り、異常心理学の大学院・学部コースと子どもの評価と介入に関する大学院コースを担当した。

同じく学者である彼女の夫は、日本の研究者とのつながりが多く、オタゴ大学に在職中、研究のために日本に移住することを彼女に提案した。当時、トリップ博士は多くの固定観念があったため、日本移住を躊躇していたという。

「正直に言うと、私はいくつかの固定観念を持っていました。ニュージーランドでは、私の部署に女性科学者は多くいませんでした。私は新米ママで、『言葉も通じない国に小さな赤ちゃんを連れて移住し、きちんと働けるか不安』という思いがありました」

状況が変わったのは、数年後、再び日本移住のチャンスが訪れた時だった。OISTとそのビジョンに触れ、トリップ博士夫妻はオタゴ大学での常勤職を辞し、2人の子供と一緒に太陽が輝く島、沖縄へ移住した。日本での生活と仕事を始めてから16年がたった今、トリップ博士は「沖縄が故郷になったわ。」と笑顔で語る。「沖縄に家を買って、ずっとここにいるんですよ。」

トリップ博士の話は、研究者の国際的な移動の重要性を示すと同時に、先入観や固定観念、言葉の壁、短期的で結果重視の学術業界の性質など、海外での研究を目指す人たちが直面する困難も示している。

グローバルな課題に多様なローカル・アプローチで対応

トリップ博士の専門は臨床心理学と神経科学で、彼女の研究は「児童の精神衛生(メンタルヘルス)」の範疇にある。「この研究所で行われている研究はすべて、ADHDの本質を理解し、ADHDの子どもが直面する問題の原因を特定しようとする様々な側面に焦点を当てています。ここで得られる知識を用いて、子どもや家族の幸福(ウェルビーイング)を向上させるための実践的取組が進められています」とトリップ博士は述べ、彼女と子ども研究所のチームが取り組んでいる研究について詳しく説明してくれた。

ADHDのような発達障害は世界中に存在するが、文化や社会の違いから、ADHDの症状を持つ子どもへの対応も異なっている。特に日本は、一体性、調和、落ち着き、集団のまとまりを重視する文化があり、研究対象として興味深い場所だ。トリップ博士は、「ADHDの症状は、これらの目標とは必ずしも一致しないため、ADHDの子どもたちがこうした日本の文化に溶け込むのは、同世代の子どもたちと比べて難しくなっている可能性があります。ADHDの子どもたちは、報酬、報酬の喪失、罰に対して異なる反応を示します。私たちは、こうした違いに関する神経生物学を理解したいと考えています。また、ADHDが恥ずべきことではないと理解してもらうための教育にも多くの時間を費やしています。」と述べた。 こども研究所/発達神経生物学ユニットのメンバーは、日本の母親のための子育てプログラムを開発し、テクノロジーや社会的プラットフォームを使って、より幅広いコミュニティにアプローチし、彼らが直面している問題を支援する方法を検討する研究を行っている。また、親と教師を一緒にサポートする方法も検討されている。

ブラジルの研究者との共同研究では、異なる国や文化においてADHDがどのように理解され、対処されているかを詳しく調べることができた。これに関して、トリップ博士は、「文化の違いから、親や教師の具体的な関心事は、日本で見られるものとは異なるかもしれません」と述べる。これは、ADHDの子どもたちのポジティブなフィードバックに対する反応や、褒めるなどの報酬の使い方が文化によっていかに異なっているかに関するグループ研究と関連している。トリップ博士は、「多くの西洋諸国では、褒めること、つまり報酬は頻繁に使われ、子どもたちがより適応的な行動をとることをサポートするために使われます。一方、日本のような文化が異なる国では、報酬は控えめに使われることが多いようです。私たちが直面している課題は、褒めることや正の強化(自己肯定感を高める)が行動を変えるのに非常に効果的な方法であることを保護者や教師に理解してもらうことです。ポジティブな強化ができれば、罰を与える必要はないのです。」と述べ、世界中におけるADHDへの対応における文化的なバイアスや影響について語った。

ADHDへのグローバルな対応についての共同研究と理解の深化に関するこのような実例は、グローバルな研究と才能ある研究者の循環が、研究成果の前進や社会が抱える課題の解決につながることをよく示している。

トリップ博士(右)と聞き手の樋口義広・JST参事役

子どもの発達障害研究の未来

ADHDの根本的な原因はまだよく分かっていない。「他の神経発達障害や精神疾患と同様に、ADHDも多重的に診断されることになります。」とトリップ博士は述べる。「我々は、ドーパミン伝達欠損と呼ばれる報酬感受性の変化に関する理論を提唱しており、この理論で少なくとも一部の人のADHD症状を説明できると考えています。ADHDは、この障害を持つ人の親族にも同様な症状が見られますが、真の原因はそれほど単純なものではありません。髪や目の色を受け継ぐといった典型的な遺伝とは違うのです。」 こうした不確実性が、障害の根本的な原因の治療を困難にしている。

治療法のひとつに薬物療法がある。しかし、これは根本的な問題の解決にはならず、障害の症状を手当するのみで、副作用もある。

精神衛生(メンタルヘルス)に対する考え方の変化、テクノロジーの進歩、社会におけるソーシャルメディアの普及は、発達障害やADHDに関する研究の進展の仕方に変化をもたらしている。OISTで開発されたプログラムについてトリップ博士は、「テクノロジーやWhatsAppなどのSNSアプリを利用して、より一般的な育児スキルを日本とブラジルの親に提供する方法を検討しています。ブラジルでは、行動管理の訓練を受けたセラピストが不足しており、家族が実際に支援サービスを受けるのは容易ではありません。日本と同じように、このような支援サービスを受けることへの偏見があります。」と述べる。

情報や治療法の普及は、治療現場が現在直面している大きな問題である。現在、ADHDの行動療法は日本の医療保険制度の対象外であり、親のトレーニングやその他の付随する問題へのアクセスは困難である。しかし、トリップ博士は、OISTに初めて来た16年前と比べて、日本で子育てプログラムへのサポートが充実してきていると述べる。彼女と彼女のチームは、アプリや地域密着型のプログラムを通じて、沖縄や日本の他の地域が支援制度にアクセスしやすくなるさまざまな方法を研究している。

発達障害の根本的な原因を治療するという最終目標には全体的なアプローチが必要であり、トリップ博士が現在行っている研究は、優れたモデルとして将来的に役立つものである。「今私がやっている仕事は、神経生物学と臨床心理学をうまく結びつけるもので、私は神経科学の同僚と臨床資格のある同僚の両者と一緒に働くことができます。」こうした共同作業は、長年の社会的課題の解決に向けた有望な道筋となるものだ。

「基礎研究を行い、その結果を日本やその他の国・地域の人々の生活を向上させるために実施することが長期的な計画です。私たちの研究は、日本だけでなく、国際的にも意義のあるものだからです。私たちは、たまたま日本で基礎研究を行っているだけなのです」と、トリップ博士は誇らしげに語った。

OIST: 卓越した研究拠点

トリップ博士に、OISTが研究者としての彼女の仕事にどのような影響を与えたか尋ねたところ、彼女の反応は非常にポジティブであった。「OISTに在籍していることは、信じられないほど幸運なことです。OISTには内部助成金というものがあり、これが競争的資金では常に担保しない研究の継続性を与えてくれます。ニュージーランドにも内部助成金はありましたが、私はいつもそのための申請書を書いていました。」 OISTが採用している「ハイトラスト・ファンディング制度」は、トリップ博士と彼女の研究に大きなメリットをもたらしている。このOISTのユニークな制度は、彼女が研究者として日本に移住することを可能にした理由の一つである。

彼女は、OISTに学びに来ている学生たちについても、非常に好意的である。「学生のいない大学はありえませんが、OISTには驚くほど多様な学生たちがいます。彼らは聡明です。私たちにチャンスを与え、新しいアイデアをもたらし、行き詰まるのを防いでくれます。彼らは、居心地の良い領域や自分の研究分野に安住することを許さず、新しい世界へと導いてくれるのです。」

OISTの特筆すべき点は、キャンパス内で働き、学ぶ外国人の多さだ。トリップ博士の研究ユニットだけでも、ポーランド、スリランカ、ベルギー、米国、イスラエル、そして日本からのメンバーがいる。「来月初めには、日本学術振興会(JSPS)の特別研究員が私たちのチームに参加する予定です。ここで2、3年間一緒に研究することで、彼女を多くの国際的な同僚に紹介する機会が得られるでしょう」OIST全体では、さらに多くの国・地域から来日したメンバーがいる。

自らの経験を総括して、トリップ博士はこう述べた。「日本に来たことを後悔してないかですって?全く後悔していませんし、すぐにここを去るつもりもありません。自分の研究にプラスになったか?もちろんイエスです。新しいラボの立ち上げなど、いくつかの困難はありました。しかし、私たちは辛抱強くがんばり、ここまでたどり着きました。私は、私たちの研究やチームのメンバーを本当に誇りに思っていますし、私たちはこれからますます強くなっていくでしょう。OISTと日本がそれを可能にしてくれたことは、とても幸運でした。」

こども研究所が入居するOIST第4研究棟
(写真提供:OIST)

国際頭脳循環と未来の研究者へのアドバイス

OISTの卒業生が日本にとどまり就職するなど、日本に利益をもたらす可能性のあるグローバル人材の国際的な循環に関して、トリップ博士は、自身の学生たちの状況について次のように述べた。「私が共同指導しているベルギーの学生は、日本に戻るのが待ち遠しくて仕方ないようです。日本に強い関心を持っている彼女は、どうしても日本に戻りたいと思っていて、たくさんのフェローシップに応募しています。ポーランドからの留学生は、日本に残りたいという思いから、いま日本語を一生懸命勉強しています。私が最初の授業から指導した学生の一人であるデータサイエンス専攻の学生も、今は日本に戻ってきて働いています。日本は彼らの肌に合うのです。たとえ一旦離れなければならなくなったとしても、また戻ってきたいと思うのだと思います。」

インタビューの最後に、トリップ博士に、子どもの発達に関する研究やその他の分野ついて日本で働こうとする若い研究者へのアドバイスを求めたところ、次のように述べた。「怖がらず、チャンスを逃さないことです。大学が考えなければならないのは、彼らが日本にやって来て生活するためのハードルを低めることだと思います。OISTは、人々がここに移住できるよう、研究室外での生活をサポートするために大いに努力してきました。例えば、OISTの職員や学生の子供たち150人以上が通うキャンパス内のバイリンガル保育施設もあります。」

「人々の間には日本に移住して働くのは難しいという(バイアス的な)意識があるため、日本がオープンであるということをよく認識してもらう必要があると思います。また、単に日本が生活や仕事にとって素晴らしい場所であることを示すだけでなく、外国からの人々が日本での生活を確立するために手助けが必要であるということも認識する必要があると思います」

トリップ博士は、海外から来る人たちが新しい経験を恐れないよう、語学レッスンや現地の行政手続などをサポートし、自らの研究などの重要なことに集中できるようにすることの重要性を強調する。国際的な人材が日本に来て、優れた研究を続け、基礎科学を社会に応用することに集中できるようにすることが重要である。

日本で活躍するグローバル研究者、特にOISTの研究者は、国際頭脳循環のメリットを示す好例である。このような研究者が日本に滞在し、現地の研究者と共に、あるいは世界的な共同研究を通じて研究を行い、さらに現地の産業界に進出、あるいは海外で活躍することは、日本にとっても世界にとっても大きな利益となる。トリップ博士とOISTこども研究所/発達神経生物学ユニットの、日本での科学研究と沖縄地域へのさらなる貢献を期待したい。

聞き手、樋口義広・JST参事役(国際戦略担当)
インタビューは2023年3月20日、OIST=沖縄県恩納村=にて実施。

ゲイル・トリップ(Gail Tripp):
沖縄科学技術大学院大学(OIST) 教授

ニュージーランド・オタゴ大学で心理学の優秀学位を取得後、臨床心理学と神経科学の博士号を取得し、公立の大病院で臨床心理士として働く。その後、オタゴ大学心理学科に戻り、研究職に就く。2007年よりOISTの主任研究員となり、現在はOISTこども研究センター所長を務める。


<OISTについて>

沖縄科学技術大学院大学(OIST)は、世界をリードする研究を行い、次世代の科学リーダーを育成し、沖縄のイノベーションと持続可能な経済成長を促進することを目的とした大学院大学である。2011年の設立以来、OISTは国際的な科学コミュニティで高い評価を得ている。規模を補正した国際比較で、OISTは、高品質でインパクトのある科学研究成果について世界のトップ10に入る研究機関となっている。

OISTホームページ: https://www.oist.jp/

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