【AsianScientist】加速するヘルスケアの進歩

疾患の診断から医薬品開発に至るまで、ヘルスケアアプリはAI とスーパーコンピューティングを組み合わせた力を持つことで大きな前進をしようとしている。(2024年5月30日公開)

熟練した研究者であれば、顕微鏡画像であれ、一連の電波であれ、実験コホートをひと目見ただけで、通常とは異なる変化を見分けることは難しくない。診療所の医師も一連の検査から得た情報をたちどころにまとめて疾患の兆候を特定し、正確な診断を下すことができる。

健康と疾患を区別するこのような驚異的な能力は、長年にわたる実践と訓練、そして広範な生体検査の経験のたまものであろう。

人間の脳の学習能力を模倣してつくられた人工知能 (AI) モデルは、まず、既存のデータセットでトレーニングを受け、パターンを認識して新しいサンプルに同じルールを適用できるようになる。これにより、疾患の早期発見や治療反応性の予測など、さまざまなヘルスケアアプリへの道が開かれる。

単純そうなプロセスだが、特に個人差や潜在的症状を含めると、トレーニングは通常、膨大な作業となる。高性能コンピューティング (HPC) は、短時間で多数の臨床データを処理できる凄まじいコンピューティング能力を持つため、このボトルネックを解消する鍵となるかもしれない。HPCとAIリソースの相乗効果により、科学者や医師は複雑な生物学的現象も迅速かつ正確に理解できるようになると期待している。

医薬品開発の近道

抗生物質の錠剤から抗炎症軟膏まで、現代医学の驚異は、おそらく薬局の棚に並ぶさまざまな医薬品が最もよく表している。以前は治療不可能であった疾患も、現在、多くは様々な治療法で対応できるようになった。しかし、いまだに新薬が開発されても実際の臨床現場で採用されるまでには時間がかかり、効果の高い介入の開発が緊急に必要とされている。

しかしながら、医薬品は臨床現場での使用が承認される前に、まず徹底的な評価を受けてその医学的利点が実証され、潜在的な副作用について説明されなければならない。この新薬の発見と開発の道のりは通常、非常に長く続く。創薬標的分子及び薬理学的活性を持ち得る化合物の特定から始まり、その後は細胞培養から前臨床試験、ヒト臨床試験に至るまで何度も試験を行う。

理化学研究所計算科学研究センター長の松岡聡教授は「医薬品の開発には非常に費用がかかり、全プロセスには10年から15年かかる場合があります」と語る。「コストを下げる方法の 1 つは、自動化を導入し、開発サイクルを短縮することです」

HPCとAIの革新は、手抜きをすることなく、あるいは安全性を損なうことなく、医薬品開発の流れを加速させる絶好の位置にある。これらの化合物を合成する上で最も重要な側面のひとつは、分子動力学シミュレーションを実行することである。分子動力学シミュレーションでは原子の運動、相互作用、および時間の経過に伴う全体的な構造変化のモデル化が行われる。

痛みの感覚を遮断する麻酔薬や、細胞増殖を促進する複数の経路を作り出す発がん性物質など、生体分子は主に他の分子と相互作用することによってその効果を発揮する。生体分子は複数の結合部位を持ち、他の分子と様々な相互作用を行うことがある。そのような活動の性質は分子の構造と環境条件に応じて変化する。生体分子の構造、さらには分子を生成する指示を含む遺伝コードの小さな変化があれば、その機能は大きく影響をされる可能性がある。

多数のシミュレーションを実行する優れた能力を持つAI アルゴリズムは、科学者が薬剤候補化合物を検索し、新しい薬剤標的を発見し、その構造を明らかにし、これらの分子と人体の間の生化学的相互作用を予測するのに役立つ。HPCをアルゴリズムに加えることは、複数のシミュレーションを並行して実行し、しかも優れた規模、品質、速度を持つ第2ギアへのシフトと言える。

これを目的として、多国籍コンピューター ハードウェア企業 ASUS の子会社である台湾ウェブサービス・コーポレーション (TWSC) は、HPCとディープラーニングを活用し、生物医学分野向けの高精度かつシームレスなワークフローの構築に向けて大きな進歩を遂げてきた。

TWSCのCEOであるピーター・ウー (Peter Wu) 氏はプレスリリースで「弊社はデータ処理、AI生物医学モデルのトレーニング、テクノロジーツールの作成というニーズを満たすために、AIアプリを生物医学工学プロセス全体に組み込みました」と述べた。

チームは9 ペタ FLOPS の Taiwania 2 スーパーコンピューターとNVIDIA の最適化された GPU フレームワークを統合し、バイオインフォマティクス分析や医療画像処理など、さまざまな生物医学アプリのインテリジェント化を推進している。

同社の OneAI ノーコード開発プラットフォームは複雑なプログラミングスキルを必要とせず二次遺伝子解析が容易になるため、ユーザーは医療に関連するかもしれないゲノム変異体を探せるようになる。TWSC の AI スーパーコンピューターは効率性の高いNVIDIA ParabricksのGPU 処理を活用してこのような複雑なデータを分析する。従来のCPUソリューションより速度は80倍速く、計算コストは半分に削減される。NVIDIA Clara for Drug Discovery ディープラーニングアルゴリズムはこれらの取り組みをさらに強化し、分子動力学シミュレーションとたんぱく質構造予測を実行して新薬の開発を加速させる。

薬剤候補の生成

他に、NVIDIA と日本の三井物産が取り組んでいる協働がある。両社は分子動力学と生成 AI (GenAI) モデルに NVIDIA の HPC リソースを使用してTokyo-1 プロジェクトを進めている。NVIDIA DGXシステムは、デュアルx86 CPUと8つのH100 TensorコアGPUを備えている。それぞれが32ペタFLOPSのコンピューティング能力を使い、数百万のパラメータを含む大規模言語モデル (LLM) の実行などといった大規模ワークロードを処理する。

LLM は、特に ChatGPT を通じて突然一般大衆が知るようになったため、その名について誤った認識が持たれているかもしれない。ただし、言語とは人間が話す言葉だけを意味するのではなく、生化学の用語も含まれる。人の DNA は本質的に「文字」コードで表すことができる化学物質のつながりであり、遺伝子指示に基づくRNA やタンパク質の配列も同様である。

この標準化された生物学的マニュアルがあるため、分子構造は化合物への反応やシグナル伝達経路の動き方などに一貫性を持たせることができる。LLMを利用してこれらの配列のパターンを見つけることで、標的薬物送達から免疫活性化まで、まだ検証されていない化合物を特定の性質と効果的に関連付けることができる。

これらのパターンに基づけば、生成AI を使用して可能な治療法となる新しい分子構造を設計することもできる。研究者は、ウイルスや腫瘍細胞の受容体の形態をヒントとして薬剤化合物を微調整し、その有効性と安全性プロファイルを改善できる。

例を挙げると、韓国の大邱慶北科学技術院の研究者たちは、HPCの創造的能力を最大限活用し、感染症や神経疾患の新しい候補タンパク質探索に利用している。V100-GPUコアのクラスターで構成される高性能スーパーコンピューティング施設は、免疫と炎症の重要な調節因子であるインターロイキン1受容体拮抗薬を標的とする薬剤の設計を加速化した。

研究室で細胞アッセイを行ったところ、チームが開発した抗炎症薬は承認済みの新型コロナウイルス感染症治療薬であるアナキンラよりもはるかに優れた性能を示すことが分かった。開発プロセスの第 1 段階はすでに完了しており、次はin vivo前臨床試験が近く行われる予定である。

理化学研究所では、AI/HPC 医薬部門も複数の製薬会社と協力して、創薬からバリデーションまで扱う高度なプラットフォームの開発を行っている。

「ひとつのプローブやひとつのソフトウェアを対象とするわけではありません」と松岡教授は語った。「開発中のプラットフォームには、ソフトウェア プログラム、データベース、AI アルゴリズムを組み合わせた50 を超えるコンポーネントが含まれており、薬剤候補を生成し、候補の有効性と潜在的な危険性をバリデーションするためにシミュレーションを行います」

新世代のデジタル診断

分子の相互作用の予測は容易ではないが、同様に、人が疾患を発症するリスクを評価することも困難な作業である。

たとえば、心臓病のリスクを評価する場合、心臓専門医は年齢、コレステロール値、胸痛の症状などといったさまざまな要因を考慮しなければならない。糖尿病などの併存疾患や、喫煙や運動不足などの生活習慣もこのリスク評価に関係する。

「一般的に、医師は疾患リスクを大まかに予測できますが、正確度には誤差があります」とシンガポール国立心臓センターの最高経営責任者兼上級コンサルタントであり、シンガポール・ヘルス・サービス (SingHealth) デューク・シンガポール国立大学心血管学会臨床プログラムの学術委員長でもあるヨー・クン・キョン (Yeo Khung Keong) 臨床学教授は述べた。

SingHealth では、最近、この誤差を埋め、HPC を通じてスマート・ヘルスケアのイノベーションを加速しようと医薬品変革のためのAIプログラムが開始された。 シンガポール総合病院の敷地には、膨大な量の臨床データの処理と生物医学応用向けの Al モデルのトレーニング専用の、SingHealth初のスーパーコンピューターであるCHROMA が設置されている。

CHROMA はシンガポール国立スーパーコンピューティング センターと共同で開発され、1,024 のCPUコアと NVIDIA DGX 320 GB AIアクセラレータが搭載されている。CHROMAはAl モデルの開発を促進して疾患リスクと患者軌跡を予測し、医療従事者をサポートして最も必要としている人々により良いケアを提供することが想定されている。

CHROMA は、心臓発作などの重篤な心臓事象に関する人のリスクを評価できる Al モデルのトレーニングに使用されており、すでに心臓血管分野で話題になっている。このプロジェクトはAPOLLOと名付けられ、SingHealthのシンガポール国立心臓センター、科学技術研究庁、デュークNUS医学部、国立大学病院、及びタン・トク・セン病院が協働している。

SingHealthのグループCEOであったアイビー・ング (Ivy Ng) 教授はプレスリリースで「(CHROMAと新しいイノベーションセンターは)イノベーターと業界パートナーの間の新たなパートナーシップを刺激して、新しいアイデア、プロトタイプ、スマートテクノロジーを生み出し、病気の予防、診断、治療を改善する役に立つでしょう」と述べた。その後、教授は職を辞した。

トレーニングを修了したAI ツールは心血管の CT スキャンを分析して、将来における心血管疾患の発症や心臓事象発生のリスクを示す重大な兆候である狭窄やプラークの蓄積を検出できるようになる。ヨー教授は、さまざまな種類のデータを組み合わせることができるため、HPCを使用するAIは特に強力になると指摘する。

たとえば、AIは、プラークの脂肪酸組成や、特にアジア人を背景としてスマートウォッチで測定された心拍数などといったウェアラブルからのデータなど、他に考えられるバイオマーカーを考慮に入れることを学習できる。さらに、CHROMAそのものは、通常は半年かかるトレーニング期間をわずか1~2か月に短縮できる。

ヨー教授は「AI によって、リスクスコア評価の差異を減少させ、報告書完成の速度を向上させることができます」と述べる。「診断の精度を高めるために、再現性が高く一貫性のあるツールを必要としています」

これらのリスク評価は、その後、臨床上の意思決定、心血管疾患患者のトリアージ、重篤な心臓事象のリスクが高い患者の優先順位付けにおいて指針として役立つ。 APOLLO チームは、このようなテクノロジーを医療ワークフローに統合することで、医療資源を適切に配分し、救命の可能性のある介入を時宜よく行えるようになると考えている。

画像分析にAIを活用したデジタル病理ソリューションもがん検出に革命をもたらす。 通常、患者から採取した組織検体は、顕微鏡スライドの上に置かれ、 経験豊富な病理医が顕微鏡で注意深く検査する。しかし、小さながん細胞は容易には認識できず、医師の診断と予後評価は困難なものになっている。

マイクロソフトと AI 企業であるペイジは、医師と患者の両方に力を与えるために、未来を見据えた協働に乗り出している。悪性細胞を発見する高感度レーダー システムとして機能する画像ベースの 生成AI プラットフォームを開発しているのである。

このプロジェクトは、臨床グレードの AI を提供し、現代病理学のデジタル化を推進することで、腫瘍臨床業務の正確性と効率性を大幅に向上させ、最終的には正確な診断を可能にし、患者の転帰を改善する可能性を秘めている。

影響と統合

健康なコミュニティを構築するという理念のもと、生物医学のためにスーパーコンピューティング・リソースに投資する国や機関が増えている。HPCを活用したヘルスケア アプリの速度が上がるにつれて、このような取り組みが患者にとっての具体的な成果となるのはそう遠くはない。

ただし、現実世界でその結果が出るかどうかは、技術の進歩だけでなく、その使用に関する意図とガバナンスも関係する。ヨー教授は、 医療情報には機密性があることから、規制の枠組みと実践的なガイドラインもイノベーションに合わせて適応し、進化する必要があると力説した。

ヨー教授は「AIとヘルスケアの統合を目指すことはできますが、これらの技術は生命に影響を与えるものであるため、技術の有効性と安全性を証明する安全策と十分な証拠が必要です」と述べた。

そのため、研究チームは追加のセキュリティ機能とプライバシー保護技術をワークフローに組み込んでいると松岡教授は強調する。連合学習は、ローカルデータベースを独立させ他のユーザーからアクセスできないようにしつつも、グローバルサーバー上での学習過程の効率を最大化する1つの方法である。

医療システムに新しい技術を取り入れる際には、倫理的な使用と信頼の構築が、医師と患者を納得させるための重要な要素となる。

HPCを活用したAIイノベーションは、責任ある技術という価値観を持てば、研究室中心の創薬から強化された診断や臨床ケアによってもたらされる社会への波及効果まで、データ主導でニーズに基づいたスマート医療の未来を変革する力を持っている。

ヨー教授は「最も重要なのは、AI技術を通常のワークフローに統合してもほとんど気づかれないようにすることです」と 語る。 「臨床上の意思決定を行う場合でも、健康状態を監視して患者に危険な兆候を警告する場合でも、結果をリアルタイムで予測する場合でも、スーパーコンピューティング機能は、個人に対し適切な医療介入を行うために非常に重要です」

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