2021年7月5日
林 幸秀(はやし ゆきひで):
国際科学技術アナリスト
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程修了
<略歴>
平成18年1月 文部科学省文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構研究開発戦略センター上席フェロー
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団理事長(現職)
東南アジア諸国連合(ASEAN)の一つであるシンガポールは、人口が比較的少ない国であるが、経済的にはASEANだけでなくアジア・太平洋諸国の中でも極めて先進的な国である。また、科学技術・イノベーションにおいても、アジア太平洋諸国の中で圧倒的に高いレベルを誇る。筆者は、その理由の一つに同国が置かれた地政学的な事情があると考えており、これを同国が進める水確保政策を例として述べたい。
シンガポールは、ほぼ赤道直下、マレー半島突端のマラッカ海峡の東端に位置する都市国家で、東京23区の面積をやや上回る国土に、2020年現在、約569万人が居住している(外務省HP、下記参照)。
歴史的には19世紀に英国の植民地となり、東西交易の中継港として貿易業を中心に発展を続けたが、第二次世界大戦中に日本軍が占領し、戦後の英国による再植民地化、1959年の自治州化を経て、1963年にはマレーシア連邦の一員として英国より独立した。2年後の1965年には、経済や人種政策の相違によりマレーシア連邦から分離される形で共和国として独立し、今日に至っている。
シンガポールは、アジア・大洋州諸国の中でも屈指の経済的先進国であり、国際通貨基金(IMF)による2020年の一人当たりの国内総生産(GDP)は58,902米ドル(約650万円)で、世界第8位となっている。ちなみに日本は40,146米ドルで、第23位である。
現在シンガポールは、アジア・太平洋諸国の中で傑出した科学技術・イノベーション国家である。
2020年8月に文部科学省科学技術・学術政策研究所が公表した「科学技術指標2020」によれば、2016年から2018年に発表された論文総数で日本が世界全体の第5位であるのに対しシンガポールは第25位以内に入っていないが、被引用数を考慮して優れた論文数のみで比較するトップ10%論文数では日本が第11位に対してシンガポールは第20位、さらにより優れた論文となるトップ1%論文数では日本が第12位に対してシンガポールは第19位となっている。国の規模や研究費などを考慮すると、極めて優れていることが分かる。
また同じく昨年9月に公表された世界知的所有権機関(WIPO)やコーネル大学などによるGII(Global Innovation Index)2020年版のイノベーション・ランキングによると、シンガポールは世界全体で第9位で、アジア・大洋州諸国のトップとなっている。このランキングでは韓国が第10位、香港が第11位、中国が第14位と続いており、我が日本は残念ながら第16位に甘んじている。
シンガポールが科学技術・イノベーション分野で世界的な存在感を示している理由の一つに、シンガポールの置かれた地政学的な事情があると筆者は考えている。そのことを水確保政策を例にとって述べる。
シンガポールは熱帯雨林気候であり、日本と比較しても多い降水量を有するが、国土が狭く、大きな河川、天然の帯水層や地下水が存在しない。このため水の確保は、シンガポールにとって死活問題であった。
1942年に日本軍が侵攻した際、マレーシアとシンガポール間の水パイプラインが破壊されたことで、水の供給を断たれた英国軍は早期に降伏せざるを得なかった。また、1965年にシンガポールがマレーシアから独立した際、当時のマレーシア首相が「もしシンガポールがマレーシアに不利な政策をとるようなら、いつでもジョホール(シンガポールとの国境地帯にあるマレーシアの地名)水道の水を止めることもやぶさかではない」という演説を行っている。
このため建国以来、水の安定供給を達成するための法整備、複数の水供給源確保を志向する国土開発やインフラの構築などが進められてきた。水確保対策としては、雨水、輸入水、再生水のニューウォーター(NEWater)、海水淡水化が実施されており、これらは「国家の4つの蛇口」と呼ばれている。このうち、マレーシアからの輸入水を除いた残りの3つが技術開発に関連しているので、これらの内容を紹介したい。
シンガポールは国土が狭いため、自然のままでは雨水は有効利用できない。そこで、先進的な都市設計を進めることにより雨水を効率的に貯蔵することが可能な貯水池を整備するものである。例えば、世界的に有名な統合リゾート施設であるマリーナベイサンズホテルが面するマリーナベイエリアで海を堰き止めてマリーナ貯水池を造成するなど国内各地で貯水池を整備するとともに、側溝、ドレイン等をシンガポール全土にはりめぐらして雨水集積システムを形成することにより、国土のおおよそ3分の2を雨水確保エリアとしている。政府では、今後2060年までに雨水確保エリアを90%まで拡張する予定である。
ニューウォーターは、排水等の使用済の水を化学的、物理的に処理することで再利用可能とした水である。ニューウォーターは、排水等を外部から処理施設に取り込み、精密ろ過、逆浸透、紫外線消毒という3段階のプロセスを経て生成される。この生成過程の中で10万件以上の科学的検査が行われ、米環境保護庁(EPA)や世界保健機関(WHO)が定める基準をクリアするレベルにまで浄化した後、生活用水や商業・工業用水に用いられる。
2003年にベドックとクランジの2カ所の工場の稼働が始まった。さらに2017年までに全体で5つの工場が稼働し、国内の1日の総水需要40%の水需要を賄っている。
このニューウォーターの開発成功は、シンガポールが革新的水技術において世界の舞台に踊り出るきっかけとなった。シンガポール政府は、2060年までに国内水需要の55%をこのニューウォーターで賄う目標を立ている。
シンガポールは、海に囲まれており海水の供給が容易であることから、適切なコストとエネルギー消費での海水脱塩技術の開発に注力している。2005年には、トゥアス工業団地においてシンガポール初の淡水化プラントで工場が稼動し、30百万ガロン/日の淡水製造を行っている。また2013年には、第二の海水淡水化工場も稼動を開始しており、70百万ガロン/日の淡水を供給している。これらの海水淡水化工場で、シンガポールの水総供給の10%を賄っている。
このように、水の確保という地政学的な課題がシンガポールの科学技術・イノベーションの進展に大きな影響を与えているのである。