【AsianScientist】アジアで広がる「気候不安」の現象―気候変動がメンタルヘルスに影響

メンタルヘルスと気候変動は、重要ではあるが通常は別の問題として議論される 。異常気象が頻発しコミュニティに影響を与えるようになってきたことから、アジアの研究者たちは気候不安と呼ばれる現象に注目し始めている。(2023年5月17日公開)

26 歳のガラ・パタリンホグ (Cara Patalinghog) 氏は忙しかった。フィリピンのパシグ市にある彼女の家の外で携帯食料をまとめ、携帯電話とパワーバンクに充電し、重要な書類を2階に移し、洪水が起こりそうな兆候がないか観察していた。すべては近くの川のライブストリームビデオを不安に見続けながらの作業である。大型台風ノルーの風速は時速85キロから時速250キロに強まった。これほどのスピードならば、樹木を根こそぎ倒し、家屋に損害を与え、電気や通信サービスを混乱させることがあり得る。

その夜、フィリピン大気地球物理天文局 (PAGASA) の科学者たちが慎重に気象速報を発表したとき、パタリンホグ氏も、パシグ市、マリキナ市、ケソン市の他の住民らも、13年前の台風ケツァナを思い出した。約300人が死亡し、家が泥の中に何カ月も埋められ、生存者が生活を再建するのに何年もかかったのである。

東南アジアの人々にとって、気候変動とは、氷冠の融解やホッキョクグマの飢餓などではなく、強力で頻繁に訪れる台風、洪水、極端な降雨、猛暑、干ばつ、そしてそれらによる壊滅的な余波を意味する。シンガポールの南洋工科大学(NTU)の研究者たちは、この地域が海面上昇の中で急速な地盤沈下の危機にさらされていることを発見した。

科学者や政策立案者は、農業やインフラへの損害、失われる命、経済的影響を考えながら、気候変動の影響を継続して調査している。アジアでは、ますます多くの研究者たちが目に見えにくい影響である気候不安について研究を開始している。

気候不安の解明

気候不安とは、気候変動によって人々が経験する影響に対する恐怖、怒り、不安、フラストレーションなどの感情反応である。しかし、サンウェイ大学(マレーシア)の心理学科のジョン・アルタ (John Aruta) 上級講師は、このような感情を抱くのは完全に正常であると述べる。アルタ講師は気候変動に対する心理的反応を研究しており、最近、フィリピンの若者が経験する気候不安について調査し、論文を書いた。

アルタ講師はAsian Scientist Magazine誌に対し「気候不安は新たな研究分野です」と語った。これまでのところ、この分野のほとんどの研究は、カナダ、米国、英国など主に欧米で行われていた。しかし現在、東南アジアの研究者たちも、今後数年間で自然災害や異常気象が増加すると思われるこの地域の問題に注目している。

2018年に発表された論文によると、貧しく、台風、洪水、土砂崩れが起こりやすいベトナムの中央沿岸地域では、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症例が多くみられる。その数はサンプリングされた人口の10%という懸念されるものである。著者たちは、この地域での気候変動の影響が強まるにつれて、この割合が増加する可能性があると警告する。

最近、アジアの2カ国を含む10カ国の気候不安に関する世界的調査を行ったところ、最も不安感を感じるのはフィリピンの若者であることが分かった。「その理由の1つは、私たちが世界で最も気候変動の影響を受けやすい国の1つであることが挙げられます」とアルタ講師は述べる。フィリピンでは、毎年平均20個の台風が発生している。

定期的に異常気象を経験するコミュニティには、家や生計手段そのものを失うかもしれなという恐れが絶えずつきまとい、不安と恐怖が植えつけられる。パタリンホグ氏は洪水と台風が与えた被害を思い出しながら、Asian Scientist Magazine誌に 「今までの台風は私の人生に大きな影響を与えました。私はこれらの経験からトラウマを抱えています」と心境を明かした。

気候変動とメンタルヘルスを結びつける重要性を示す証拠がどんどんと現れてきているのだから、政府と地域社会はうまく対処することができる。サンウェイ大学(マレーシア)のプラネタリー ヘルス主任科学者であり、セイントルークス病院(フィリピン)のプラネタリー・アンド・グローバル ヘルス・プログラムのディレクターであるレンゾ・グイント (Renzo Guinto) 氏は、気候変動が壊滅的な影響を与えれば、人々は永続的な影響を受ける可能性があると力説する。グイント氏は Asian Scientist Magazine誌に対し「人々の精神的・感情的な健康、自信、人生観、人生への熱意など、これらすべてが気候変動の影響を受けます。特に若者が影響を受けるのです」と語った。

気候不安には、治療が必要な病気などといったネガティブな連想がつきものだが、グイント氏とアルタ講師は、それを異常なものと見なすべきではないと強調する。「これは、気候変動という実際の脅威に対する普通の反応です」とアルタ講師は話す。

グイント氏は、気候変動に対する感情的反応はさまざまだと説明した。環境の変化に対して軽度の苦痛、恐怖、怒りを経験する人もいるが、有害性が高い結果に直接影響を受ける人は、すぐに介入する必要がある激しい、ほとんど麻痺するような感情を示す。

時限爆弾は進んでいる

気候変動に関連する精神的負担を研究している研究者は、この問題はもっと科学的に注目されるべきと述べている。グイント氏は「調査されれば、対応できます」と力説する。「数字だけの問題ではありません。それは、人々が文化的・地理的背景の中で実際にそれをどのように経験しているか、そして彼らがこれまでどのように対応してきたかという話になるのです」

アルタ講師とグイント氏は、フィリピンの気候不安に関する論文の中で、特定のコミュニティが気候不安を覚えるいくつかの要因を列挙している。1つは年齢である。高齢者は生涯の中で多くの台風から生き延びているため、そのことが気候災害に対する意識に影響を与えているといえる。対照的に、若い世代は気候危機への意識ははるかに低いのだが、今後数十年でその影響に苦しむこととなろう。

他の要因は地理的場所である。ある地域は他の地域よりも気候災害が多い。災害が多い地域に住む人々は気候不安になりやすい。「雨が好きな人もいますが、私にとっては、気圧が下がり嵐が来るたびに、不安レベルがピークに達します」とパタリンホグ氏は語る。また、暴露の種類によっても違いが出てくる。気候災害の直接の生存者もいれば、水没したコミュニティのビデオをニュースで見たり、被害を受けた本人のソーシャルメディアを読んだりするなど、間接的な経験を持つだけの者もいる。 パタリンホグ氏のように、その両方となる者もいる。

さらに、気象現象の種類も、それらに対する人々の精神的反応に影響を与える可能性を持つ。洪水などの異常気象は、森林喪失や気温上昇などといった遅発性の現象とは異なる影響を与えるであろう。

これらすべての異なり、絡み合い、時には衝突する背景を考慮して人々の実際の経験を理解することは、介入を開発するための第一歩であり、グイント氏が次の研究分野であると指摘するものである。

政策、心理学、行動、適応に介入すれば、深刻化する気候危機に対する人々の精神的・感情的な回復力を高めることができる。しかし、時間は刻々と進んでいる。気候変動が引き起こす気象現象がさらに悲惨なものとなり、頻度が高まるにつれて、気候不安や心的外傷後ストレス障害、うつ病といった他の症状の程度は高くなり、依存症の割合は増え、絶望感にさいなまれる。

欠けているつながり

グイント氏は、気候変動はメンタルヘルスの議論の中で、メンタルヘルスは気候変動の議論の中で、それぞれ必要なほど扱われていないことが根本的な問題であると言う。一部の機関は、この欠けているつながりに注目し始めている。

2022 年 6 月、世界保健機関(WHO)は、気候変動が精神的苦痛だけでなく、新たなメンタルヘルス障害の発生や既存の障害の悪化に関係することを強調するポリシーブリーフを発表した。

このポリシーブリーフは政府に対し、次の5つの推奨事項を挙げる。

  • 気候に関する考慮事項をメンタルヘルス・プログラムと統合すること。
  • メンタルヘルス・サポートを気候変動対策と統合すること。
  • 世界全体が参加すること。
  • コミュニティを基盤とするアプローチを開発して脆弱性を軽減すること。
  • メンタル ヘルス・サポートでは大きな資金差を埋めること。

明日を明るくする

アルタ講師とグイント氏をはじめとするアジアの研究者にとって、気候不安の根本原因の特定は、常に優先順位トップの研究である。 2人は、今後、気候教育と気候不安への影響に関するデータを収集したいと考えている。

「私たちは、フィリピンで気候変動教育がどのように教えられているかを調べ、それがフィリピン人の気候不安の一因となっているのかを評価する計画を立てています」とアルタ講師は述べた。何といっても、恐怖に基づくカリキュラムと希望に基づくカリキュラムは、気候変動に対する学生の一般的な認識や心理的反応に大きく異なる影響を与えることになる。

グイント氏は、気候不安に関する感情を行動につなげる必要性を強く訴える。彼は「今日の若者は皆不安を感じており、指導者に対しては怒りも感じているかもしれません。彼らは率直に声を上げています」と話す。「しかし、課題はその不安と怒りをどのようにして発動力にして、行動にするかということです」

パタリンホグ氏の場合、彼女の家族は気候不安からよい結果を得ている。パタリンホグ氏の姉妹はパシグ市の実家から転居する一方、残りの家族は近いうちに高台に引っ越す予定である。これには仕事やコミュニティから離れることを伴うものの、標高が高いということは、洪水のリスクや不安が少なくなることを意味する。パタリンホグ氏のように恵まれた環境にない人々にとっては、頻繁に生活が乱れ、メンタルヘルスが影響を受けることは一般的なこととなるであろう。

アルタ講師は、まだ逆転は可能だと信じている。 彼は、気候不安についてさらに研究すれば多くの介入につながり、人々やコミュニティが肉体的にも精神的にも気候変動に適応する力を持つことができると考える。パタリンホグ氏はこの意見に賛成する。 「人々が気候変動だけでなく気候不安に対処する援助をすれば、長期的にはコミュニティを変えることができます」

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