過去10年間、シンガポール国立スーパーコンピューティングセンター (NSCC) とその協力機関は、シンガポールの研究開発エコシステムを支援するために、スーパーコンピューティングを活用したイノベーションの開発を主導してきた。(2025年1月28日公開)
時間の流れはどのようにして測るのだろう。節目やカウントダウン、誕生日や記念日、新聞紙の山や年間レビューのプレイリストなど、1年は長い時間であると同時に最も短い季節のようにも感じられる。1年が10倍の10年であっても、人類の文明の歴史の中ではほんの一瞬のように思える。
しかし、テクノロジーの進歩に関して言えば、過去10年間は節目が目白押しだった。数え切れないほどのスマートフォンモデルがリリースされ、SNSアプリがアップデートされ、我々はさまざまな分野でロボットと自動化の統合を目の当たりにしている。昨年だけでも、ChatGPTのような生成人工知能 (AI) ソフトウェアの台頭が、同じく興奮と反響を引き起こした。
このような新興技術は、これらが社会に影響を与える可能性を以前から見抜いていた投資家や開発者がいなければ、一般向けに普及することはなかったであろう。同様に、シンガポールのデジタルトランスフォーメーションは、研究、イノベーション、エンタープライズ (RIE) 戦略などを通じたイノベーション・エコシステムへの長年の投資によって推進されてきた。
このRIE計画の一部を作ったのは強力なコンピューティング・リソースに対するニーズの高まりであり、シンガポール国立スーパーコンピューティング・センター (NSCC) は、都市国家初の国立ペタスケール施設として極めて重要な役割を果たしている。NSCCの正式な発足は2015年だったが、その基礎は1980年代にすでに築かれていた。
事実、NEC SX-1Aスーパーコンピューターが当時の高度コンピューティング・センター (ACC) に設置されたのは1988年1月のことだった。シンガポール政府はスマートエコノミーの構築には高性能コンピューティング (HPC) が必要と考え、戦略チームを編成し、国内のスーパーコンピューティング施設の設立に向けて動き出した。
先見の明は報われ、現在、NSCCシンガポールは国のイニシアチブと産業の変革を推進するイノベーションハブとなっている。NSCCシンガポールの10周年を記念して、本記事では一般的な社会問題に対応するNSCCシンガポールの役割を紹介し、主要なプロジェクトを振り返り、シンガポールとその他の地域で、スーパーコンピューティングが与えると想定される未来の影響について考えてみる。
デジタル化時代では、さらに強力な計算ツールが開発され、科学的発見やさまざまなアプリケーションの作成を加速している。当然のことながら、これがスーパーコンピューターの台頭につながり、その高速計算能力は気候・化学から製造・医療まで、さまざまな分野を席巻している。
スーパーコンピューティング・システムは速度とストレージ容量に有益である。それはまるで火に油を注ぐようなものであり、特に利益を享受するのはAIタスクである。天気予報であれ医療診断であれ、AIとディープラーニング (DL) モデルには通常、精度を向上させるために大量のデータを入力する必要があるため、トレーニングは手間暇がかかる。HPCを使うとトレーニングが迅速化されるだけでなく、機能を拡張してテキストと画像など異なるタイプのデータを組み合わせることができるため、開発者は複雑性の高いアプリケーションを自由に設計することができる。
シンガポール科学技術研究庁 (A*STAR) の科学技術研究評議会副最高責任者であるリム・ケン・フイ (Lim Keng Hui) 教授は「HPCとAIの利用は、研究開発 (R&D) の取り組みを加速させる上でますます重要になるでしょう」と語る。「これらのテクノロジーは、イノベーション・サイクル全体を短縮することができます」
世界中でHPCを利用するアプリケーションが促進され、急増していた。シンガポールはその動きに遅れをとるつもりはなかった。10年前、A*STARはシンガポール国立大学 (NUS)、南洋理工大学 (NTU)、シンガポール工科デザイン大学 (SUTD) とともに、シンガポールにスーパーコンピューティング施設を設立するという構想を支援し、国立研究財団 (NRF) の資金援助を受け、国家研究インフラとしてのNSCCシンガポール誕生という道を開いた。
それ以来、NSCCシンガポールのHPCリソースを活用して最先端のプロジェクトや実りあるパートナーシップが数多く出現した。たとえば、AIシンガポール (AISG) 戦略を支えるために、6台のNVIDIA DGX-1サーバーが、施設初のペタフロップス・スーパーコンピューターであるASPIRE 1に統合された。AI.Platform@NSCC と名付けられたこのシステムは、大規模なAIワークロードの処理に使用され、DLモデルの開発を可能にした。
NSCCシンガポール運営委員会の委員長であるクエク・ギム・ピュー (Quek Gim Pew) 氏は「[2019 RIE]の資金はその後、国家スーパーコンピューターインフラのアップグレードに使用され、新しいASPIRE 2Aスーパーコンピューターシステムが誕生しました。これは第1世代のASPIRE 1と比べて7倍の計算能力と2倍の画像処理装置 (GPU) を備えています」と説明する。「最初の運用開始から1年も経たないうちに、ASPIRE 2Aはすでに500を超える研究プロジェクトに使用されました」
新しいNVIDIA H100 GPUの機能拡張も近々開始される予定であり、大規模言語モデル (LLM) のトレーニングなど、AIとHPCの画期的な相乗効果はさらに促進される。AISGが先頭に立って進める国家LLMプログラムはすでに進行中である。A*STARとのプロジェクトの1つでは、NSCCシンガポールがHPC機能を提供して、NSCCシンガポールは、現在デジタルリソースが限られている東南アジアの言語など、十分なサービスが提供されていない言語に焦点を当てた音声テキスト変換アプリケーションを構築している。
一方、シンガポール国立大学保健機構 (NUHS) とのパートナーシップから、Prescienceというスーパーコンピューターが誕生した。PrescienceはLLMを利用するアプリケーションを構築し、臨床記録を迅速かつ正確に合成し、患者の入院期間を推定し、歯科スキャンを改善することを目的としている。
HPCリソースを導入し、臨床医が計算ツールを活用して病気の拡散をモデル化できるようになったため、シンガポールではコロナ禍への対応も強化された。ウイルス飛沫の感染経路をマッピングすることで、医療従事者や政策立案者はコミュニティのために適切な介入策を考案できた。
スーパーコンピューターは既存の計算ワークフローを加速できるだけでなく、科学者やエンジニアを未知の領域に踏み込ませることもできる。国家量子コンピューティング・ハブはNUSの量子技術センターとA*STARの高性能コンピューティング研究所 (IHPC) との共同イニシアチブである。NSCCシンガポールのHPCシステムは、このハブの一環として、量子コンピューターのハードウェアで実行できるアルゴリズムを開発し、量子コンピューティングの限界を押し広げようとしている。さらに、NSCCシンガポールには量子コンピューティング施設が設置され、この分野の進歩を促進させる国際協力体制の構築を支援する。
NSCCシンガポールは10年の歴史を通じて、協力体制の先駆者として、それと同時に多分野にわたる取り組みの受益者及び支援者として光を放ち続けてきた。その設立と成長は、政府と学術関係者からの継続的な支援と投資の成果である。NSCCシンガポールの次の主な使命の1つは、国家の戦略的利益を促進する大規模プロジェクトを実施する官民パートナーシップを促進することである。
A*STAR、国家環境庁 (NEA)、そして多くの高等教育機関は、ASPIREシステムの指定ログインノードを通じて、これらのスーパーコンピューティング・リソースに容易にアクセスできる。アクセスが増えるとバラエティに富んだ使用例が生まれ、業界全体でHPCの影響が拡大する。
シンガポールの精密医療はスーパーコンピューティングと生物学を組み合わせることで進歩が加速し、革新的な疾患検出アルゴリズムが出現している。遺伝やその他の背景因子を分析することで、がんや家族性高コレステロール血症(悪玉コレステロール値が高く、心臓発作のリスクが高い)などの慢性疾患に罹患している人を特定するスクリーニング技術が開発中である。
このような技術は、特定の遺伝子や分子を背景とする疾患に使用されることが多いが、NSCCシンガポールのHPCシステムはバイオマーカー発見の新基準を確立するのにも役立っている。研究者たちは、その起源や根本的な要因がいまだ不明確で多様性に富む精神疾患に取り組むことができるようになった。NUSのチームはスーパーコンピューティングを利用したDLモデルを開発した。このモデルは脳画像のパターンを見つけ、脳のマクロ構造の変化と病理学的状態の関係を見つけ、それと同時に局所的なターゲットを特定して正確性の高い治療をすることができる。
NSCCシンガポールはASPIRE 2Aの他にKöppenシステムも設置している。KöppenシステムはNEAのシンガポール気候研究センターと提携しており、専用の気候パターン分析を行う160テラフロップスのCray XC50スーパーコンピューターである。膨大な量のモデルシミュレーションを並列で実行できるHPCシステムであり、数十年にわたる気候予測を可能にし、400メートルの高空間解像度でリアルタイムの天気予報モデルを構築する上で重要な役割を果たしてきた。
高速コンピューティング機能は膨大なエネルギーを必要とすることから、NSCCシンガポールは最近、NUS及びSurbana Jurong社と共同で、環境に優しいHPCシステムの開発に着手した。ジュロン島の液化ガスターミナルでは、グリーン・モジュラー・データセンター・システムが稼働を始めた。これは価値実証が行われたことを意味し、より強力なテクノロジーが社会制度の中に浸透しても、地球の健康を考えることの重要性を強く訴えるものである。
最後になるが、NSCCシンガポールは、業界とその発展に貢献するためにHPC人材の育成にも力を入れている。これには、A*STARのIHPCその他の機関と提携しての技術力の構築や、高等教育機関と協力してインターンシップ及び学生研修を実施することが含まれる。「HPC人材は欠かせない人材であり、このようなツールの開発に必要です」とクエク氏は語る。「人材能力の育成と成長もNSCCシンガポールの重要点であり、多方面のアプローチが必要になります」
シンガポールはイノベーションへの継続的な投資と、R&Dエコシステムに役立つ政策の制定を通じて、R&Dと技術進歩の中核としての地位を確立した。設立からそれほど長い時間は経っていないものの、NSCCシンガポールは社会の発展を推進させるスーパーコンピューティングの重要性をすでに示しており、都市国家の中で多くの業界が実施しているデジタルトランスフォーメーションの象徴となっている。
リム氏は「コンピューティングとデジタルツールは不可欠なものとなります。これらは気候や持続可能性から医療に至るまで、今日の多くの社会経済的問題を解決するために使用されるでしょう」と述べた。「NSCCシンガポールはさらに重要な存在となっていくと考えます」
明らかに、HPCは影響力重視の次世代アプリケーションを推進する上で重要な部分であり続け、NSCCシンガポールと提携者はイノベーションの旗手として存在感を見せている。すでに多くの業績が成し遂げられたが、シンガポールのスーパーコンピューティング・リソースと、それによって実現できる革新的なアプリケーションには、まだ多くの成果が期待されている。