【AsianScientist】 包括的な医療研究を進め、精密医療を公平に

アジアの研究者や政策立案者は、包括性の高い医療研究を進め、地域の多様なコミュニティに役立てようとしている。(2025年6月17日公開)

2009年6月、シンガポールにKK女性・小児病院にクリニックが開設され、これまでで国内最大かつ最も広範なコホート研究の参加者を募集した。この研究は「シンガポール子ども健康成長研究 (GUSTO)」と名付けられ、妊娠10週目という早い段階から、遺伝的要因と環境的要因が子供の発達にどのような影響を与えるのかを調べることを目的としていた。合計1247人の妊婦がこの研究にボランティアとして参加した。シンガポール全土のいくつもの研究機関が女性を管理し、超音波スキャン、経口ブドウ糖負荷試験、栄養評価など、さまざまな検査を行った。この研究は現在も継続中であり、882人の女性が参加している。研究開始以来、366本の論文が発表されており、アレルギー、栄養、近視、脳の発達といったテーマに関する知見を提供している。

研究者たちは、これらの有益な知見に加え、包括性に関する重要な教訓も得た。この研究では、選択基準の中でも、特に胎児が人種的に均質であり、祖父母の双方が同じ民族であることが求められていた。

A*STAR人間発達・潜在能力研究所 (A*STAR IHDP) のトランスレーショナル神経科学プログラムディレクターであるマイケル・ミーニー (Michael Meaney) 氏は、Asian Scientist Magazine誌のインタビューで「16年前の私たちはあまり知識がなかったため、この基準はすぐに不合理なものとなりました」と語った。

GUSTOが開始された年、シンガポールにおける結婚の15.1%が異民族間結婚であり、38.7%が国際結婚であった。これらの数字はその後も高い水準を維持している。祖先を限定するコホート研究の実施は困難であり、多様化が進む集団の中では、妥当性が低くなっている。

2015年2月、GUSTOから得られた知見に基づき、KK女性・小児病院は同様の研究を開始した。この研究は、「女性であること、及びパートナー、家族が中国系、マレー系、インド系、又はそれらの混血であること」というさらに広範かつ包括的な基準に基づきボランティアを募集した。この新しい研究は「シンガポール妊娠前長期母子アウトカム研究 (S-PRESTO)」と呼ばれ、同じクリニックで実施された。この研究の目的は妊娠前と妊娠中の栄養、ライフスタイル、母親の気分が子どもの健康アウトカムに及ぼす影響を調べることであり、妊娠を希望する女性1032名が参加した。

世界中の研究者たちは、より広範な集団のニーズに対応するには、データセットを拡大し、多様な社会的弱者グループを意図的に含めることが重要であるという意識を持つようになってきている。このようなアプローチを採用すれば、目の前にある独特な課題に対する理解が深まり、研究の成果がすべてのコミュニティに適用でき、公平性を持つようになる。

デューク・シンガポール国立大学(NUS) 医学部定量医学センター (CQM) のセイド・エフサン・サファリ (Seyed Ehsan Saffari) 助教授は「研究が特定のグループだけに焦点を当てても、その研究結果をすべての人に当てはめることはできません。少数グループにとって効果の低い介入、あるいは有害な介入につながる可能性もあります」と述べた。

ゲノミクスとその先へ

遺伝学に関して言えば、ゲノム研究のほとんどはヨーロッパ系の人々を対象としている。国際健康コホート・コンソーシアムによると、2021年6月時点でヨーロッパ系が占める割合は約86.3%である。この過小評価に気づいたアジアの研究者や医療機関は、格差を埋めようとしている。

その一例が、日本を拠点とするPrecision Medicine Asia (PREMIA) である。同社は腫瘍学イノベーションの中心となり、日本全国の臨床ゲノム肺がん登録システムであるLC-SCRUMを管理している。このデータベースには、日本における患者1万9000人のゲノムデータが含まれており、日本、台湾、タイ、マレーシアの265以上の病院との提携を通じて、データを拡大している。これにより、PREMIAは、臨床試験で過小評価されている患者の最適な治療法を詳しく知ろうとしている。同様に、インドは2020年にゲノム・インディア・プロジェクトを立ち上げ、インド全土の市民から1万点の遺伝子サンプルの配列を解析し、参照ゲノムを構築した。

インドの人口は13億人であり、グループ間の民族多様性が極めて大きいため、広範かつ多様なデータ収集は不可欠である。このプロジェクトを実行するのは、インド全土の20の研究所に所属する44人の研究者から成り立つチームである。チームは99の異なる集団から約2万点のサンプルを収集し、そのうち1万点以上について配列解析を行った。データ収集と並行して、チームはデータ解析の新たな手法を開発した。

この研究は今までインド人に共通する数億点の遺伝的変異を特定し、これまでの配列解析では小規模集団を除外していたために検出されなかった知見を得ることができた。特に、チームは健康な個人に見られる「良性」変異をまとめ上げた。研究者が一般的な疾患を解明しようとする際には、これらの変異を除外すればよい。

積極的に組み込む

研究者たちは、精密医療の効果を高め、各個人に合わせたものにするために、遺伝子以外の無数の他の要因を考慮する。他の要因とは、ライフスタイル、社会経済的背景、身体能力、行動パターン、年齢、性別などである。

サファリ助教授はAsian Scientist Magazine誌に対し「このような個別化医療について語るときは、個々のデータが必要です。遺伝子データは血液検査で収集できますが、ライフスタイルや環境要因も考慮します」と述べる。「例えばお茶を飲むこと、緑茶を頻繁に飲むことなど患者さんが長年にわたり一貫して行っていることは、影響を与える可能性があります」

サファリ助教授と同様に、シンガポール保健省医療改革局 (MOHT) の主任データサイエンティストであるクレイトン・ヘアウクラニ (Creighton Heaukulani) 氏も、「現代の精密医療は、診断と治療結果の予測精度を高め、不確実性を低減するために、これらの決定要因を可能な限り多く、かつ可能な限り高精度で測定することを目指すべきです」と話す。

しかし、これらのデータの入手は、特に社会的弱者グループについては、必ずしも容易ではない。社会的弱者は、研究者が通常関わる医療制度や医療機関にアクセスできない場合や、サブグループが小さすぎて統計的に有意ではない場合もある。「異なるサブグループ全体にわたる介入の有効性を特定し、評価するには時間がかかることもあります」とサファリ助教授は付け加えた。

こうした課題を踏まえて、MOHTのチームは2020年にmindline.sgというデジタル・メンタルヘルス・プラットフォームを立ち上げた。ヘアウクラニ氏がプラットフォームに参加したのはその1年後である。このプラットフォームは、多様なユーザー層のために的を絞ったメンタルヘルス支援とストレス管理を行うことを目的としている。

ユーザーのニーズを理解するために、ヘアウクラニ氏たちは、様々な背景を持ちサービス利用を希望する幅広い層の人々に協力してもらい、定量的な測定と定性的なフォーカスグループ調査やインタビューを通じてデータを収集した。

ヘアウクラニ氏の研究は、生物医学的精密医療研究と同様に、個人のメンタルヘルスのニーズに合わせた具体的な治療を提供することを目指している。ヘアウクラニ氏は 「ソリューションの理解と適用範囲が広ければ広いほど、その影響は大きくなります」と説明してくれた。「もし調査に反映されていない集団、例えばフォーカスグループに含まれていない集団がいる場合、その集団が持つ特定のニーズを理解することは難しく、結果として、そのニーズに適したソリューションを設計する機会を失うことになります」

さらに優れたモデルを構築する

アジアの研究者たちは、データセットの多様性を高める方法を模索している。その一方で、より広範な集団サンプルに全員を組み込もうとするときに研究者が直面する困難を軽減できるモデルの構築にも取り組んでいる。

そのようなモデルを使えば容易に一般化することができ、単一の集団を対象とした研究であっても、さらに広範な集団に適用できるようになる。

例えば、個人の遺伝子データにおいて、報告された民族性に起因しない可能性のある変異を考慮する混合モデルが挙げられる。シンガポール保健省デューク・NUS精密医療研究所 (PRISM) のチームは、シンガポールの人口の大部分を対象とするSG10Kヘルス・プロジェクトから、9051人のコホートを分析した。

チームはこの研究で、祖先の遺伝子は多様だが、臨床的に関連する遺伝子変異を特定することを目指した。コホートは中国人、マレー人、インド人の3つの主要な民族グループで構成されており、その分類は祖先に関する自己申告に基づいていた。しかし、自己申告による祖先は、遺伝的に推定された祖先と必ずしも一致するとは限らない。個人の遺伝子と民族の遺伝子がどの程度異なっているのか示される。このような不一致は、研究者が研究を定義し、データを分析する際に、理論上の課題となり得る。

チームは、混合ソフトウェアを用いることでこの課題を克服した。このソフトウェアは、遺伝子の祖先成分を分析し、可能性のある民族集団と比較することで、参加者の遺伝的祖先を推測することができた。9051本の遺伝子のうち、268本は報告された祖先と一致しなかった。

そこからチームはゲノム配列を解析し、興味のある臨床的変異を特定した。チームは、混合集団においては、特定の祖先を持つ個人が、通常は別の祖先にのみ存在する遺伝子変異を呈する可能性があることを指摘した。例えば、中国人の場合、通常はマレー系集団にのみ見られる遺伝子変異が見られることが分かっている。このような発見があるため、研究においてはあらゆる集団を多様化させる必要性が注目されている。混合モデルを用いれば、研究者は大規模かつ多様な集団の研究を効果的に行うことができる。

ヘアウクラニ氏は「私たちの統計的手法が、患者の多様な特徴や病気の現れ方をすべて含めてうまく識別できるようになるためには、多種多様な患者特性を見せる多くの事例が必要です」と述べる。「ある種類の患者の事例がなければ、その症例を適切に識別することはできません。そして、必要なのはその種類の一人の患者だけではありません。多くの患者が必要なのです」

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