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【26-014】クラウド企業ならではのPhysicalAI開発 Tencent AI Labが公開した「Tairos」

2026年02月06日

高須 正和

高須 正和: 株式会社スイッチサイエンス Global Business Development/ニコ技深圳コミュニティ発起人

略歴

略歴:コミュニティ運営、事業開発、リサーチャーの3分野で活動している。中国最大のオープンソースアライアンス「開源社」唯一の国際メンバー。『ニコ技深センコミュニティ』『分解のススメ』などの発起人。MakerFaire 深セン(中国)、MakerFaire シンガポールなどの運営に携わる。現在、Maker向けツールの開発/販売をしている株式会社スイッチサイエンスや、深圳市大公坊创客基地iMakerbase,MakerNet深圳等で事業開発を行っている。著書に『プロトタイプシティ』(角川書店)『メイカーズのエコシステム』(インプレスR&D)、訳書に『ハードウェアハッカー』(技術評論社)など
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 中国のテクノロジー大手企業Tencent(騰訊)は、Unitree(宇樹科技)やEngineX、AGIBOTなどの多くのロボット企業に投資をしている。同社研究機関のTencent AI Labでは、100名以上の研究者を集めた大規模なチームで、Tencent Robotics Xという名前で総称されるPhysicalAI研究を行い、オープンなプラットフォームを提供することで多くのロボット企業を支援している。

 中国のロボットイベントに登壇した縁から、Tencent AI Labの阿楠氏を訪問することができた。同社のPhysicalAIの取り組みについてレポートする。

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深圳市南山区のTencent本社内にあるAI Lab。中央が阿楠氏。(筆者提供)

 2025年7月、AI Labの成果の一つが「Tairos」(タイロス、中文名:钛螺丝)という名前でリリースされた( https://tairos.tencent.com/ )。複数企業のロボットにまたがって使える、特定のハードウェアによらないオープンなphysicalAIの開発・実験環境だ。

1.Tairosの機能:複数のロボットを対象にクラウドベースで提供される「頭脳」と「環境」

 Tairosは、Tencent Robotics X Laboratoryと福田実験室(Futian Laboratory)が共同開発した「具身智能(エンボディドAI)オープンプラットフォーム」だ。名称のTairosは「チタン製のネジ」に由来し、ロボットハードウェアとAIモデル、そしてデジタルと物理世界を強固に連結する重要な部品となることを企図している。

 Tairosの最大の特徴は、データ、計算能力、そしてAIモデルを一括してクラウドベースで提供する点にある。開発者は、物理的なロボットを所有していなくても、NVIDIAのIsaac Simをベースとしたクラウドシミュレーション環境にブラウザから「ゼロインストール」でアクセスし、即座に開発・検証を開始できる。対象はUnitreeのほか、複数のロボットに対応している。

 Tairosの中核は、人間の脳機能になぞらえられた3つの大規模モデルで構成されている。

・計画大規模モデル(左脳):ユーザーの曖昧な自然言語指示を理解し、複雑な推論を経て実行可能なタスクへ分解する。「ニーズを理解し、断ることができ、ループを閉じることができる(完結できる)」能力を持ち、APIを通じてロボットの行動計画を生成・修正する。

・マルチモーダル感知モデル(右脳):視覚・言語・空間情報を統合し、環境の意味論的な「3次元階層化地図」を構築する。これにより、ロボットは環境を人間のように記憶・理解する。

・感知・行動統合大規模モデル(小脳):「思考してから行動する」運動制御を司り、異種ロボット間でのスキルの汎化や、不整地での安定移動を実現する。

 これらがSDKや標準化されたAPI(WebSocket)を通じて提供されることで、ハードウェア開発者は「頭脳」の開発コストを削減できる仕組みとなっている。つまり、TairosはあくまでTencentのクラウド計算能力を前提に、同社のサーバにAPI経由でアクセスするサービスだ。

2.異種ロボットで同一動作を実現する「環境データ」の魔術

 PhysicalAIの最大の課題は、ロボットが動作するために膨大な「環境データ」を必要とする点にある。Tairosはこの課題に対し、高度な環境認識技術とデータ構造化によってアプローチしている。

 訪問時に動画で見た(実機ではない)デモンストレーションでは、複数社の4足歩行ロボットや人型ロボットなど、形態の異なる(異構型)ロボットが、同じ環境下で高度な自律動作を行っていた。これを可能にしているのが、Tairosの「右脳」が生成するBDDL(Behavior Domain Definition Language)シーングラフによる環境記述である。この動画は公式サイトで公開されている。

 具体的には、ロボットは搭載されたカメラ映像から、物体(Objects)とその状態(Init State)、および物体間の関係性(Graph)をリアルタイムで抽出し、デジタル空間上に再構築する。例えば、視覚言語ナビゲーション(VLN)の技術資料によれば、ロボットは「N1:黒い車」「N2:展示台」といった意味的なノードを持つトポロジー地図(位相地図)を作成し、自己位置推定と経路計画を行う。

 このプロセスにおいて、屋外のSD-MAP(標準地図)と屋内のトポロジー地図をシームレスに統合することで、ロボットは建物の外から内部の特定の会議室まで、途切れることなく移動することが可能となる。このように、物理世界の情報をAIが処理可能な論理データへ変換する「環境データの共通化」こそが、複数の異なるロボットで同じタスク遂行を実現する鍵となっている。

 また、現状課題の多いこうしたAIデータの抽象化・汎用化を、さまざまなAIを複数のレイヤーに分けてモジュール化する手法で実現しようとしている。

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ヒューマノイドだけでなく、さまざまなロボットで実験が行われていた。(撮影:阿楠氏、筆者提供)

3.ロボット企業のAI活用とは一線を画す「計算能力」のアプローチ

 従来のロボット企業(ハードウェアメーカー)によるAI活用が、機体制御や特定のタスク処理に特化しがちであるのに対し、Tencentのアプローチは「AI・クラウド企業」としての強みを最大限に活かしたものである。それは、圧倒的な計算能力を背景とした世界モデルの構築と提供である。

 Tairosの実装事例として動画で見られる上海の法律事務所や敦煌莫高窟のガイドロボットにおいて、Tencentは「Tencent Cloud HAI」を通じてロボットの「クラウド上の脳」に巨大な計算リソースを提供している。ロボット本体(エッジ)で行うには負荷が高すぎる大規模言語モデル(LLM)の推論や、複雑なマルチモーダル処理をクラウド側で実行し、低遅延ネットワーク技術(マルチネットワーク集約加速)でリアルタイムに本体へフィードバックする。

 Robotics Xの責任者である張正友博士が提唱する「IDEAS」の概念のうち、「I(IPhD:虚実集成世界)」はまさにこのアプローチを象徴している。高品質なデジタルツイン空間内で、何千、何万ものシミュレーション(デジタル分身)を並列で実行・学習させ、その結果を現実のロボットに適用する。これは、単なるロボット制御ソフトの開発ではなく、ロボットが活動するための「インフラストラクチャ」を構築する試みであり、豊富な計算資源を持つ巨大テック企業ならではの「ロボットの未来」の提示と言える。

 筆者が見学時に確認したところ、活動する場の地図、ポイントクラウド、鳥観図データなど、デジタルツインを実現するための地図データはかなり詳細な三次元データを前提としており、実験としてはともかく、市場化を考えるときにはかなりハードルの高いアプローチに思えたが、データと計算能力を豊富に使える環境では異なるロボットでこのようにフレキシブルな作業ができるというのは夢のある話だ。物理的なロボットと違い、クラウド上の計算能力にはムーアの法則が適用される。

4.全方位戦略に見る「ロボットの未来」への洞察

 研究所を見学して強く感じたのは、Tencent Robotics Xが特定の手法に固執せず、テレオペレーション(遠隔操作)、模倣学習、シミュレーションベースのAI学習など、全方向的に研究を展開している点である。

 例えば、Tairosプラットフォームには、人間が介入して教示を行うためのインタラクション機能や、遠隔からのデータ収集・アノテーションを行うためのツールが含まれている。また、犬型ロボットが自律的に障害物を乗り越える学習には、強化学習やモンテカルロ木探索といったアルゴリズムが採用されている。さらに研究所ではTairos以外の研究・デモも大量に行われており、ロボットハンドのような繊細な操作(Dexterous Manipulation)においては、触覚センサーを含むマルチモーダル感知の統合が進められている。

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さまざまな材質・形状のものを掴むロボットハンドは彼らが開発したもの。常にさまざまなハードウェアプロトタイプの開発も行っている。(撮影:阿楠氏、筆者提供)

 これは、「ロボットの正解」がいまだ未確定であることをTencentが深く理解している証左である。完全自律が難しい場面ではテレオペレーションや「人機共生」のアプローチを採り、データ不足の領域ではシミュレーションを活用し、複雑な制御には模倣学習を用いる。この柔軟かつ包括的な研究体制は、ロボット技術が過渡期にある現在において、最も理にかなった戦略であると評価できる。

5.「ラックマウント交換ロボット」からの進化と応用研究の妙

 Tencent Robotics Xの歴史を振り返ると、かつてはデータセンター内でラックマウントされたサーバーを物理的に入れ替えるロボットなど、同社の本業(インターネットインフラ)に直結した特定用途のロボット開発を行っていた経緯がある。そこから発展し、現在では「Tairos」のような汎用プラットフォームや、人型ロボット、四足歩行ロボットの基盤技術研究へと対象を広げている。

 現在の彼らの立ち位置は、純粋なアカデミア(基礎研究)と、製品を販売するハードウェアメーカー(事業応用)の、ちょうど中間に位置している点が非常に興味深い。張博士が述べるように、彼らは論文を書くだけでなく、実際に動く「モノ」を作り、それを敦煌の石窟や商業施設といった実環境(Real World)で検証している。

 この「応用と研究の間」にある領域こそが、現在のロボット工学において最もイノベーションが求められている場所である。大学の研究室では扱うのが難しい大規模な計算リソースやデータ基盤を提供しつつ、営利企業が直面する短期的な利益追求のみにとらわれない長期的な視点で「具身智能」の本質を探求する。

 同社では多くのインターンも一緒に研究しており、ラボの活動そのものは非営利として多くの大学と共同研究を行いたいそうだ。筆者の訪問時も、日本の大学とのつながりについては期待していた。

 Tencent Robotics Xの活動は、中国のロボット産業において、基礎技術を実用レベルへと引き上げるエンジンの一つとして機能しており、その動向は今後も注視が必要である。

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研究成果はWeChat上で公開されている。(筆者撮影)


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