日本人研究者が語る中国経験インタビュー
「中国における信号処理・ブレインコンピュータインタフェース研究の現状」 東京農工大学大学院工学研究院知能情報システム工学部門・田中聡久教授
JSTアジア・太平洋総合研究センター 2026年08月18日
センターでは、中国の研究環境や近年の研究開発力の急速な発展要因等に対する理解を深めるため、中国の研究者コミュニティと長年交流してきた日本人研究者へのインタビューを実施した。今回は東京農工大学の田中聡久教授にお話を伺った。
田中聡久(たなか・としひさ):東京農工大学大学院工学研究院教授
略歴
東京工業大学にて博士号(工学)取得後、2002年から2004年まで理化学研究所脳神経科学研究センターで勤務。その後、東京農工大学工学部講師、同准教授を経て、2018年10月より現職。上海交通大学、華東理工大学、杭州電子科技大学など中国の大学と長年にわたり共同研究・学術交流を実施。中国、香港、マカオで開催された学術会議にも多数参加。
専門分野は、信号処理、機械学習、生体信号解析、ブレインコンピュータインタフェース(Brain-Computer Interface: BCI)(※1)など。
1.中国の研究者コミュニティとの関わり
● 理研時代のネットワークと中国との接点
私が中国の研究者と本格的に交流するようになったきっかけの一つは、理化学研究所時代の研究者ネットワークである。当時、理研には中国出身の研究者が複数在籍していた。その中には、その後、中国国内外の大学や研究機関で重要な役割を果たすようになった人もいた。
私にとって中国の研究者コミュニティとの重要な接点の一つとなったのが、曹建庭先生(※2)である。曹先生とのつながりは、私が中国側の研究者との交流を広げていく上でも大きな役割を果たした。
なお、中国との交流は、特定の大学に長期滞在して研究を行うという形で始まったわけではない。理研在籍時の人脈を起点に、JSPSの二国間共同研究、国際会議、研究者同士の紹介を通じて、少しずつ広がっていったものである。
● 上海交通大学、華東理工大学、杭州電子科技大学への広がり
その後、制度的な共同研究の枠組みとして、JSPSの二国間共同研究を通じて上海交通大学と共同研究を行う機会があった。これをきっかけに上海を訪問する機会が増え、共同研究プロジェクトが終了した後も、中国側の研究者との関係は続いた。
さらに、上海交通大学との共同研究を通じて生まれた関係は、別の研究者ネットワークとも結びついていった。脳科学や神経動力学の研究者ネットワークを通じて、華東理工大学の王如彬先生(※3)との交流が生まれた。王先生はニューロダイナミクス、すなわち神経動力学に関する国際会議に関わっており、その会議を通じて、中国国内外の研究者とのつながりがさらに広がっていった。
こうした会議や紹介を通じたつながりは、杭州電子科技大学との交流にもつながった。同大学には、計算機学院に属するBCI関連の研究室があり、孔万増先生(※4)らとやり取りをするようになった。それ以降、中国を訪問する際に杭州を訪れ、講演や研究交流を行う機会も増えた。
コロナ禍以前は、中国を年に3、4回ほど訪問していた時期もある。上海を訪れることが多く、杭州にも年1回程度は行っていた。こうした訪問を重ねる中で、個別の大学との関係だけでなく、中国の信号処理・BCI関連分野の研究者コミュニティとの関わりが広がっていった。
● 中国側における協力者としての位置づけ
このように継続的に交流する中で、中国側から、研究室や学院の国際的な協力者として紹介されたこともある。ただし、私自身は正式な契約書や身分証を受け取ったわけではなく、日常的に勤務したり、大学の正式な教員として活動したりするものでもなかった。
私の受け止めとしては、制度上の明確な肩書というより、研究室や学院の国際的な協力者、あるいは研究者間ネットワークの中でのパートナーに近い位置づけだったと思う。複数の日本側研究者が、中国側の研究室や学院の国際的な協力者として名前を挙げられていたのではないかと理解している。
ただ、こうした紹介のされ方には、中国側にとって国際的な協力関係を示す意味もあったように思う。実際、中国側の研究プロジェクトにおいて、日本との共同研究関係を示す文脈で同席を依頼されたこともあった。たとえば、浙江省の科学技術部による研究費審査の面接に同席したこともある。面接は現地で行われたが、質問者は別会場からリモートで参加しており、相手の顔は見えなかった。私にも突然質問があり、日本側の研究費の状況について聞かれた。この件は、少なくとも私が関わった範囲では、中国側が日本側研究者とのつながりを重視していたことを示す出来事として印象に残っている。
以上のように、中国との関わりは、一つの大学に所属して研究を行う形ではなく、理研時代の人脈、共同研究、国際会議、研究者同士の紹介を通じて、少しずつ広がっていった。その結果、中国を訪問し、講演や研究交流を行う機会が増えていった。
2.中国における信号処理・BCI分野の研究動向
● 「日本でまかれた種」が中国で育った
中国のブレインコンピュータインタフェース(Brain-Computer Interface: BCI)や神経情報処理関連分野の発展を考える上で、理研時代の研究者ネットワークは重要である。
私が所属していた理研には、甘利俊一先生(※5)やアンジェイ・チホツキ(Andrzej Cichocki)先生(※6)のチームがあり、そこには中国出身の研究者が多くいた。私自身はチホツキ先生のチームにいたが、甘利先生のチームも含め、当時の理研には、中国の神経情報処理・BCI分野につながる人材が集まっていた。
そうした人々の多くはその後、中国に戻ったり、米国や英国などに移った。現在、中国のBCIや神経情報処理関連分野で重要な役割を果たしている研究者の中には、当時の理研や日本の研究者ネットワークとつながりを持っていた人も少なくない。
たとえば、李遠清先生(※7)は、現在、中国のBCI分野における重鎮の一人であり、華南理工大学で重要な役割を果たしている。もともと中国では、BCI分野の研究者は現在ほど多くなかった。しかし、2000年代前半以降、理研などで経験を積んだ研究者が中国に戻り、そこから研究者が大きく増えていった。2010年代には、中国国内でBCI関連の学会・研究コミュニティも形成されていった。
2026年春に蘇州で行われたワークショップには、かつて理研や甘利先生、チホツキ先生の研究グループに関わった研究者たちが集まった。中国に戻った研究者、欧米に移った研究者、日本との関係を持つ研究者が集まる、いわば同窓会のような場でもあった。
この分野では、日本でまかれた種が中国で大きく育ったという側面がある。理研や日本の研究者ネットワークで学んだ中国人研究者が帰国し、その後、中国の大学や研究機関で分野を立ち上げ、研究者を育てていった。現在では、中国側の研究レベルは非常に高く、BCIや神経情報処理関連分野においては、研究者層や研究成果の面で日本を上回っていると感じる場面も少なくない。
● 国際会議に見る中国の存在感
信号処理分野における中国の影響力は、特にこの10年で非常に大きくなったと感じている。現在では、中国からの論文なしにはこの分野が成り立たないと感じるほどである。研究者人口が大きく増え、国際会議やジャーナルでも中国のプレゼンスは極めて大きくなっている。
私が関わっている国際会議でも、中国からの投稿や参加は非常に大きな割合を占めるようになっている。たとえば、信号処理分野の主要国際会議であるIEEE ICASSP(※8)では、中国からの投稿や参加が非常に目立つ。2026年の会議では、投稿論文数の65%が中国からであり、参加者5500人のうち46%を中国が占めていた。
こうした数字は、中国の研究者人口の拡大を端的に示している。同時に、単に量が増えただけではなく、研究水準そのものも上がっている。昔に比べると、中国から出てくる論文の質は明らかに上がっており、非常に良い論文も多い。以前は、研究の目的、命題、結論がうまく対応していない論文もあったが、現在はそのような粗さはかなり減っている。
一方で、投稿数が非常に多い分、質のばらつきも大きい。私はIEEE(※9)の論文誌でシニアエディターも務めており、多くの投稿論文を見る立場にある。週に6、7件ほど論文を担当することもあり、そこでも中国からの投稿は7〜8割を占めている。
良い論文も多い一方で、明らかに生成AIで作成したような論文や、存在しない参考文献を引用しているような論文に出会うこともある。これは中国だけの問題ではなく、アカデミア全体の問題でもある。ただし、中国からの投稿総数が非常に多いため、問題のある論文の数も目立つ。投稿数が多いため、ジャーナルや国際会議の運営に関わる立場から見ても、中国からの投稿への対応は非常に大きな比重を占めている。
● 応用・改良・性能向上に強い研究スタイル
中国の研究を見ていると、既存の手法を応用し、改良し、性能を高めていく研究に強みがあるという印象を持っている。信号処理やAIの分野では、既存の手法を別の対象に適用する、隣接分野の方法を持ち込む、性能を改善する、といった研究が多く見られる。
たとえば、大規模言語モデルに代表される自然言語処理、音声認識、画像認識などで使われているAIの手法を、脳波解析や生体信号解析に応用するという発想がある。
完全にゼロから新しい概念を生み出すというより、既存の方法を別の分野に持ってくる、性能を上げる、適用範囲を広げる、というタイプの研究に強い印象がある。受験競争や評価制度の影響もあるかもしれないが、数字を上げる、精度を上げる、ベンチマークで勝つという分かりやすい競争に強い。
もっとも、これは単に独創性がないという意味ではない。隣接分野の方法を取り入れ、別の分野で新しい価値を生み出すことも、一種のイノベーションである。脳波や生体信号の分野でまだ使われていなかった方法を取り入れ、この分野では存在しなかった研究を作るという意味では、こうした形の「0から1」も中国では見られる。
ただ、この見方もすでに過去のものになっているかもしれない。それほどに中国のダイナミクスは激しい印象を持っている。
3.中国の研究環境の実態
● 研究者人口と資金量が生む競争力
中国の強みとしてまず挙げられるのは、研究者人口の厚みである。信号処理、BCI、生体信号解析、AI診断のような分野では、データの収集、前処理、性能比較、アルゴリズムの改善など、地道で手間のかかる作業が重要になる。特にAIを用いた研究では、大量のデータと検証作業が必要になるため、こうした作業を担える人材が多いこと自体が大きな競争力になっていると感じる。
もう一つ大きいのは資金量である。中国の研究競争力を支える要素として、制度や仕組みももちろんあるが、私の実感としては、やはり資金があることは非常に大きい。研究費、設備、人材確保のいずれにおいても、資金量は大きな差になる。
たとえば、海外から研究者を呼ぶ場合にも、給与、住居、研究費などの条件が提示されることがある。定年後に中国の大学へ移る日本人研究者の中には、比較的良い条件で迎えられる例もある。一方で、若手・中堅研究者が中国へ移る場合には、日本で語られるほど待遇が常に高いわけではないという話も聞く。
日本の大学を定年退職して中国の大学に移った研究者が、半年ほど授業を担当し、日本で教員を続けるよりも良い条件で処遇された例を聞いたこともある。こうした話を聞いていると、中国の研究環境では、研究者の数や資金の規模が大きな意味を持っていると感じる。
● 大規模研究グループという組織構造
中国の研究環境の特徴として、大規模な研究グループの存在がある。日本の大学では、教員がそれぞれ比較的独立した研究室を持ち、個別に学生を指導し、研究費を獲得する形が一般的である。一方、中国では、研究室のトップにあたる教授の下に、複数の教授・准教授クラスの教員が属し、大きな研究グループとして活動する例が見られる。
私が見てきた中国の研究室でも、分野ごとに大きなグループが形成され、その中に複数の教員と多数の学生が所属していた。たとえば、研究室を主宰する教授がいて、その下に教授・准教授クラスの研究者が4、5人いるような構造である。日本の大学で一般的に見られる小規模な研究室というより、医学部の医局に近い面もあるかもしれない。
この仕組みには、若手研究者にとっての利点もある。独立して研究室を立ち上げ、設備や研究費を一から確保しなくても、大きなグループの中で研究を始めることができるからである。また、設備や資金をグループ内で共有・再配分できる点も強みになり得る。
一方で、この仕組みには制約もある。大きなグループがあると、資金や設備を共有できる強みがある一方で、そのグループがカバーしていない分野の研究は出にくいかもしれない。日本では一人の教員が一つの研究室を持ち、それぞれ異なるテーマに取り組むため、多様性が残りやすい面がある。
日本でも近年、研究設備を組織的に共用するコアファシリティや設備共用の重要性が議論されている。ただ、単に設備を共有すればよいわけではなく、誰が司令塔となり、どのように利用を調整するかが重要になる。共有のメリットがある一方で、自分のペースで自由に設備を使いにくくなるという面もある。
なお、私の研究分野は、巨大な実験設備や多数の技術職員が常に必要な分野ではない。脳波を測ることはあるが、医学部や病院の検査部門のように専門技師が多数必要な研究とは少し異なる。そのため、設備共用や技術職員による分業の重要性は、分野によって見え方が異なる。
私が見てきた範囲では、中国の研究組織は、重点分野に人材と資源を集中し、まとまった成果を出す点に強みがあるように見える。一方で、日本のような小規模分散型の研究環境には、多様性や自由度という別の強みがあると感じている。
● 評価制度が研究行動を方向づける
中国の研究者コミュニティを理解する上で、評価制度の影響は大きい。中国では、ジャーナルや国際会議に対する格付けが研究者のキャリアに大きく影響しており、研究者はどの媒体に成果を出すかを非常に意識している。
たとえば、論文誌や国際会議にTier 1、Tier 2といったランクが付けられ、そのランクが研究者の評価に関係している。どの会議に通すか、どのジャーナルに出すかが、キャリア上の評価につながるためである。
このような評価制度は、研究者に国際的な競争を意識させ、成果を出すための強い動機づけになる。一方で、過度に働くと、研究の中身や問いの設定よりも、高ランクの媒体に採択されること自体が目的化する可能性もある。
国際会議についても、会議に参加して議論することより、採択実績を得ることが重視される場合がある。場合によっては、論文が採択されても著者本人が会議に参加せず、代理で発表を依頼するようなケースも見られる。中国には代理発表を請け負う業者もいるようで、ひとりの代理者が複数件を発表していたり、質疑の際に代理発表者であるため回答できないと説明したりすることもある。
私が把握している例では、全発表論文の約2割に対して代理発表の申し込みがあり、そのうち9割近くが中国からだった。これは中国だけの問題ではないが、国際会議運営の現場では特に目立つ。中国人研究者にとって、どの会議に採択されるかが評価に大きく関わるため、会議に実際に参加して議論することよりも、採択実績を確保することが優先される場合があるのだと思う。
さらに、政府や中国科学院等が認定する会議リストが存在するようで、そこから外れると、中国人研究者の参加が大きく減ることがある。アジア・太平洋地域の信号処理学会でも、かつては中国のプレゼンスが高かったが、特定のリストから外れたことで中国人会員・参加者が減ったという印象がある。中国人研究者にとって、どの会議が評価されるかは非常に重要であり、評価対象から外れた会議には参加しにくくなる。
これは単に個々の研究者の姿勢の問題というより、評価制度や成果主義への適応の結果として見るべき現象だと思う。政府が「こうしろ」と直接言っているというより、研究者個人が評価制度やキャリア上のインセンティブを読み取り、その中で合理的に行動している。その結果として、研究者の行動が制度上の評価基準に沿ったものになっていくのではないかと思う。
日本人研究者は、会議のランクをそこまで強く意識しないことが多い。もちろん、有名な会議に参加したいという意識はあるが、会議に参加して議論すること、研究者と会うこと、情報を得ることにも価値を置く。一方、中国では、会議やジャーナルの格付けが研究者の行動をより強く方向づけているように見える。
● 人材・キャリア動向
人材の厚みは、研究者の国際移動やキャリア形成にも表れている。海外で経験を積んだ中国人研究者が、中国に戻る動きもある。
米国の大学にいる中国人研究者の中には、中国の大学へ戻ることを考えている人もいる。米国では、大学内では問題なく過ごせても、大学の外に出ると中国人としての居心地の悪さを感じることがある、という話も聞く。
一方で、中国人研究者は欧州や英国にも多くいる。所属が中国国外であっても、著者や研究者のバックグラウンドを見ると中国系である場合は多い。日本の研究機関でも、コンピュータサイエンス系の論文では中国系研究者の存在感は大きい。
中国では若手の登用も早い印象がある。日本では定年間近の世代が担うような学部長・学院長レベルの役職に、40代の研究者が就いている例もある。大学運営層の年齢が比較的若いことも、日本との違いとして感じる。
また、中国の大学では、AI関連分野の人材獲得に非常に積極的な例もある。たとえば、以前から研究交流のある香港中文大学深圳校の人工知能学院の院長、Haizhou Li先生(※10)から、日本で開催された関連イベントの参加者について直接照会を受けたことがある。日本にいる中国人留学生やポスドクなどを念頭に、優秀な若手研究者を探しているということであった。日本の大学では新規採用が限られる中、中国側は分野によっては大規模な採用を行っている。
● 現場で見える中国の変化
研究環境だけでなく、日常的な交流の中にも中国の変化を感じることがある。
たとえば、近年、中国の学会や研究者同士の食事会で酒類が提供されなくなったことが印象的であった。以前は研究者同士の会食で酒が出ることも多かったが、ここ1、2年で雰囲気が変わり、バンケットでもワインが出ないことがある。主催者側が慎重になっており、持ち込みも認めないような雰囲気を感じることがある。背景にある制度や規制の詳細は分からないが、研究者が慎重になっている様子は感じる。
中国で研究活動を行う上で、ネット環境はストレスになることがある。Google等のサービスにアクセスしにくいことは、やはり不便である。
ただし、実際に現地で見ていると、運用は一様ではない。蘇州大学ではeduroam(※11)に接続することで制限なく利用できたことがあり、ホテルのWi-FiからGoogleにアクセスできたこともあった。研究者が大学に申請することで必要なサービスを利用できる場合もあるようで、Google Scholarのページを持っている中国人研究者も多数いる。
そのため、情報アクセスの制約はあるが、それが常に研究活動の決定的な障壁になるとは限らない。制度上の制約は存在する一方で、実際の運用には幅があるように感じた。
4.中国の研究エコシステムと社会実装
● 大学発スタートアップへの踏み出しやすさ
中国の研究環境で注目している特徴の一つは、社会実装やスタートアップへの踏み出しやすさである。
中国では、大学教員や研究者がスタートアップに関わる例が少なくない。私の分野でも、中国の研究者と話していると、研究室の学生や教え子が起業し、教員がそれを支援しているという話を聞くことがある。教員が株主として関わり、教え子の会社の成長を支援する例もある。たとえば、上海交通大学の呂宝粮先生(※12)の教え子がゲーム関連企業miHoYoを立ち上げ、大きく成長した例がある。これは、私の専門分野そのものの研究成果が直接企業化された例ではない。しかし、呂先生はBCI分野でもよく知られた研究者であり、大学や研究室を起点とする人的ネットワークの中から、学生や若手が起業に踏み出し、それを教員が支援する雰囲気を示す事例として印象に残っている。
こうした動きは、研究者が単にビジネスをしたいから生じているわけではない。大学の中では制約があって進めにくい研究や、実証・製品化に近い研究を、会社という形で進めることができるからである。中国の研究者と話していると、研究室や教え子の会社を通じて、研究成果や人的ネットワークが大学の外につながっていく例を聞くことがある。
● 制度的支援の厚さと運用上の課題
日本でも大学発スタートアップへの支援は増えているが、制度的・文化的なハードルはまだ高いと感じる。起業前の支援はあっても、会社設立後の継続的な支援には課題がある。登記した時点で支援対象から外れてしまうような制度もあり、起業してから軌道に乗るまでの支援が十分ではない場合がある。
一方、中国では、会社を立ち上げた後も支援を受けやすいと聞くことがある。たとえば、中国の大学に移った日本人研究者が、会社設立や研究室整備に関連して、住居や研究費などの支援を受けたという話もある。
ただし、中国ではすべてが円滑に進むわけではない。たとえば、日本から中国の大学に移った研究者が、研究費や支援の枠組みはあっても、着任後しばらく研究室や事務所の整備が進まず、実際には研究費を執行しにくい状況があったと聞いた。制度上は支援が用意されていても、現場での手続きや施設整備が追いつかない場合がある。
このように、中国の社会実装やスタートアップをめぐる環境には、支援の厚さと実務上の遅さの両面がある。資金や制度の面では大胆に支援が行われる一方で、実際に研究室を立ち上げたり、会社を動かしたりする段階では、事務手続きの遅さや執行上の課題も残る。それでも、研究成果や人的ネットワークを大学の外へつなげていく道筋が、日本より身近に感じられる場面は多い。
● 「まず動く」意思決定の速さ
中国の研究環境や社会実装のスピードを考える上では、制度だけでなく、行動原理の違いも重要である。
私が接してきた範囲では、日本では「やってよい」と明示されたことから進める感覚が強い。ルールや前例、許可の範囲を確認し、その中で動く。一方、中国では、「やってはいけない」と明示されていなければ、まず実行に移す傾向があるように見える。もちろん、すべての場面に当てはまるわけではないが、研究者や大学関係者と接していると、そうした違いを感じることがある。
あくまで比喩的に言えば、シェアサイクルのサービス提供形態にも、こうした違いが表れている。中国では、禁止された場所を除けば比較的自由に停められるサービスが多い。一方、日本では、指定された場所に返却する方式が一般的である。研究や社会実装の場面でも、これに近い違いがあるのではないかと思う。
この違いは、意思決定の速さにも現れる。中国の研究者や大学関係者は、懸念事項があればその場で関係者に電話し、確認し、すぐに決めることがある。日本では、いったん持ち帰って検討し、関係部署と調整し、後日回答することが多い。中国では、その場で確認して前に進めることが多く、そのスピード感は非常に印象的である。
私自身、中国の研究者と接する中で、検討に時間をかけるだけでなく、必要な確認をした上でその場で決めることの重要性を感じるようになった。東京農工大学で教育担当や国際関係の役割を担う中でも、事務方から相談を受けた際には、できるだけ即断することを心がけるようになった。
もちろん、ルールや安全性を確認せずに進めればよいという意味ではない。しかし、社会実装やスタートアップを進める上では、必要な確認を行った上で早く試す姿勢が大きな力になる。中国の研究者や大学関係者と接していると、必要な確認をその場で行い、早く前に進める姿勢が印象に残る。
● 中国語コミュニティとWeChatの情報圏
中国との交流を通じて強く感じたことの一つが、中国語コミュニティの重要性である。
研究の国際化というと、一般には英語で論文を書き、英語で発表し、英語で議論することが想定される。しかし、中国の研究者人口が大きくなる中で、中国語で共有される情報や、中国語圏の人的ネットワークの重要性は増している。
中国人研究者同士は、WeChat(※13)などを通じて情報を共有している。国際会議やワークショップの案内、研究者間の評判、研究機会、運営上のノウハウなど、英語の公式情報だけでは見えにくい情報が、中国語圏のネットワークの中で流通している。研究分野によっては、数百人規模の中国語コミュニティが形成されていることもある。
英語での発信や議論だけで国際的な研究コミュニティを十分に把握できる時代ではなくなってきていると思う。中国語で共有されている情報があり、中国人研究者同士のネットワークがある。そこに入れるかどうかで、見える情報が変わる。
私自身も、中国を訪問するようになってから中国語を学び、現地で一人でも行動できるように努めた。街中に出ると英語が通じにくい場面も多く、最初は学生に通訳や案内を頼むこともあった。しかし、自分で中国語を使えるようになると、相手に過度に気を遣わせずに済み、研究者同士の距離も縮まった。
最初は英語で話していても、中国語を少し交えることで相手の反応が変わり、距離が縮まる。ワークショップに呼ばれるようになったり、研究者コミュニティの中での関係が変わったりした。中国の研究力を理解するには、論文データや政策文書を見るだけでなく、中国語で動く研究者コミュニティをどう把握するかも重要になる。
5.国際協力を取り巻く環境と研究インテグリティ
● 研究者同士の関係と国際情勢
中国の研究者との交流では、個人として接している限り、非常に親切で、率直に議論できる研究者も多い。研究の話をしている場面では、国籍や政治的な立場を強く意識することなく、同じ分野の研究者として協力できることも多い。
しかし、近年は、研究者同士の関係だけでは解決できない問題が増えている。国際共同研究や国際学会の運営では、ビザ、渡航、所属機関の方針、開催地、研究資金の扱い、経済安全保障上の懸念など、研究そのものの外側にある要因が大きく影響するようになっている。
私の実感としては、中国側が国際協力そのものを嫌がっているというよりも、各国・地域の対中姿勢や国際情勢の変化が、研究交流のボトルネックになっている場面がある。中国人研究者の中には、米国や日本、欧州の研究者と共同研究をしたい人も多い。それでも、所属機関や国・地域の制度上、以前のように自由に交流しにくくなっている。
かつては、アカデミアは国際情勢とはある程度距離を置いた世界だと思っていた。しかし現在では、研究者同士の交流や国際学会の運営も、国際情勢に大きく左右されるようになっていると感じる。中国の研究者と付き合うこと自体は楽しく、研究上の刺激も多い。ただ、それを世界情勢の中で見ると、単純には扱えない難しさがある。
● 国際学会運営に表れる地政学的な制約
こうした難しさは、国際学会の運営にも表れている。
私が関わっているアジア・太平洋地域の信号処理関連学会でも、開催地をどこにするかは大きな問題になる。学会は本来、研究者が国や地域を越えて集まり、研究成果を発表し、議論する場である。しかし現実には、開催地、ビザ、渡航制限、所属機関の方針などによって、参加できる人と参加しにくい人が分かれてしまう。
たとえば、台湾で国際会議を開催した際には、中国本土からの参加者が非常に少なかった。ゼロコロナ政策が終わった後であっても、台湾への渡航許可を得ることが難しかったのではないかと感じている。また、インドで開催された国際会議では、中国人研究者へのビザ発給が難しく、中国からの参加が大きく制約された例もあった。
香港も難しい位置にある。私が関わる学会の一つは、設立当初から事務局を香港に置いていた。しかし、現在の国際情勢の中では、香港に関係する組織とどのように関わるかについて、所属機関側が慎重になる場合がある。米国の大学に所属する中国出身研究者が、中国・香港に関係する国際学会の役職を続けにくくなる例もあり、学会運営にも地政学的な影響が及んでいる。
また、国・地域の名称をめぐる扱いが、学会運営上の問題になることもある。国際会議では、参加者の所属や地域名をどのように表記するかが必要になる。しかし、中国、台湾をめぐる表記は政治的に敏感であり、学会側が対応に苦慮する場面もある。
このように、国際学会の運営では、研究の質や分野の重要性とは別に、政治的・制度的な条件が参加者の移動や役職、開催地の選定に影響している。中国の研究者を国際コミュニティにどう位置づけるかは、単純な問題ではなくなっている。
● 国際共同研究を進める上での確認事項
国際共同研究についても、以前より慎重な対応が求められるようになっている。
研究者同士の信頼関係があっても、現在では、所属機関の規程や研究費の扱いについて、以前より慎重に確認する必要がある。中国との共同研究に限らず、国際共同研究全般において、研究インテグリティや安全保障に関わる確認事項が増えている。
以前のように、研究者同士の人的ネットワークだけで進めることは難しくなっている。海外の研究者から講演に招かれたり、旅費の支援を受けたりすること自体は、学術交流として一般的に行われてきた。しかし現在では、そうした交流についても、所属機関に説明できる形で進める必要を感じることがある。
こうした変化は、研究者にとって負担でもある。研究の中身に集中したいと思っていても、国際共同研究を進めるには、制度やルールへの対応が必要になる。特に中国との協力では、研究者個人の意図とは別に、国際情勢や経済安全保障の観点から注意深く扱われる場面がある。
● 研究インテグリティと中国との距離感
中国の研究者コミュニティは非常に大きく、信号処理やBCI、AI関連分野では、国際研究の中で大きな位置を占めている。中国からの論文や国際会議への参加がなければ、分野全体の動向を把握することも難しくなっている。
重要なのは、相手を知らないまま遠ざけることではなく、相手の研究環境や制度、研究者コミュニティの実態を理解した上で、分野、研究テーマ、相手先、共有する情報やデータの性質に応じて判断することだと思う。
6.中国経験を踏まえた日本への示唆
● AI時代の人材育成
日本への示唆として、人材育成の問題は大きいと感じている。
AIやデータサイエンスに力を入れるといっても、それを担う工学系の学生や情報系の人材が十分にいなければ、研究は広がらない。大学にAI・データサイエンス系の学部や学科を作っても、そこに進む人材がいなければ、急に研究者や技術者が増えるわけではない。
重要なのは、中学・高校の段階から、数学、情報、プログラミングなどに関心を持つ人材をどう育てるかである。できる子が理系に進み、その先でAIやデータサイエンスを学び、研究や社会実装に関わっていく流れを作る必要がある。
中国は、人材の面で恵まれている。人がいなければイノベーションは起きない。日本でも、大学や研究機関だけでなく、その前段階から人材を育てることを考える必要があると思う。
● 相手を知り、理解することから始める
中国については、食わず嫌いになっている面もあるのではないかと思う。実際に一回でも行ってみれば、見え方は変わる。
知らないまま判断すると、疑心暗鬼になり、中国を必要以上に悪いものとして見てしまうことがある。まずは一度行ってみる、人と会ってみる、知るきっかけを作ることが重要である。
中国は、人のつながりで動く社会である。アカデミアの中でも中国系の研究者は非常に多く、学会や研究活動の中で中国の研究者と関わる場面は避けられない。論文の査読や採択、エディターの推薦なども、最終的には人が行うものであり、知っているかどうか、つながりがあるかどうかが影響する場面はある。
そのために付き合うべきだ、という単純な話ではない。ただ、これだけ大きな研究者コミュニティを無視するメリットはない。中国の研究者や研究コミュニティを知らないまま判断するのではなく、実際に関わりながら理解していくことが必要だと思う。
(※1)ブレインコンピュータインタフェース(Brain-Computer Interface: BCI):脳活動から得られる信号を解析し、機器操作や意思伝達などに利用する技術。
(※2)曹建庭:信号処理、脳信号処理、神経回路等を専門とする研究者。1996年理化学研究所に入所、研究員。1998年上智大学電気電子工学科、助手。2002年同大学講師。同年、埼玉工業大学電子工学科准教授。2008年同大学情報システム学科教授。2026年より蘇州大学特任教授。
https://jdxy.suda.edu.cn/_s258/65/d8/c14015a681432/page.psp
(※3)王如彬:1998年名古屋大学で博士号を取得後、認知神経動力学、脳情報処理等の分野で研究を行い、現在は華東理工大学認知神経動力学研究所所長を務める。
(※4)孔万増:杭州電子科技大学コンピュータサイエンス学部長。人工知能、パターン認識、ブレインコンピュータインタフェース(BCI)、認知計算等を専門とする。
(※5)甘利俊一:1981年東京大学工学部計数工学科教授。同年理化学研究所国際フロンティア研究システム情報処理研究グループディレクター、2003年同研究所脳科学総合研究センターセンター長。2021年より帝京大学特任教授。
(※6)アンジェイ・チホツキ(Andrzej Cichocki):ワルシャワ工科大学で博士号取得後、エアランゲン・ニュルンベルク大学で研究員。1995年に理化学研究所(当初は国際フロンティア研究システム、1998年より脳科学総合研究センター所属)へ加わり、知能実現機能研究チーム、開放型脳システム研究チーム、脳信号処理研究チームの3つの研究チームを設立・運営した。
(※7)李遠清:華南理工大学の研究者。2002年より理化学研究所脳科学研究所研究員等を経て、2008年以降華南理工大学教授。ブレインコンピュータインタフェース(BCI)、脳情報処理、機械学習等を専門とする。
(※8)IEEE ICASSP:IEEE International Conference on Acoustics, Speech and Signal Processing。参加者数5000人規模の音響、音声、信号処理分野の主要国際会議。2028年は東京で開催(組織委員長:田中聡久)
(※9)IEEE:Institute of Electrical and Electronics Engineers。電気・電子工学、情報通信、信号処理等の分野における会員数50万人を超える国際的な専門学会。
(※10)Haizhou Li:音声・言語処理、人工知能等を専門とする研究者。シンガポール国立大学等を経て、香港中文大学深圳校の人工知能学院院長を務める。
(※11)eduroam:大学・研究機関等の構成員が、参加機関の無線LANを相互利用できる国際的な認証連携サービス。
(※12)呂宝粮:上海交通大学の研究者。機械学習、脳型計算、ブレインコンピュータインタフェース(BCI)等を専門とする。上海交通大学におけるBCI・脳型計算関連研究を牽引してきた研究者の一人。
(※13)WeChat:中国のTencentが提供するメッセージング・SNSアプリ。チャット、音声・ビデオ通話、公式アカウント、ミニプログラム、決済など多様な機能を持つ。中国では日常的な連絡手段として広く使われており、研究者間の連絡や情報共有においても重要なインフラとなっている。LINE、WhatsApp、Facebook等のサービスが利用しにくい中国では、メール以外で中国の研究者と連絡を取る主要な手段でもある。
※本記事の内容はインタビューに基づくものであり、所属機関の公式見解を示すものではありません。
【聞き手・構成】
JSTアジア・太平洋総合研究センター
吉野寛之(専門員)、横山聡(副調査役)
