日本と歴史的連結性―インド北東州のポテンシャルとIITグワハーティー(Guwahati)②

2022年08月02日

松島大輔

松島大輔(まつしま だいすけ):
金沢大学融合研究域 教授・博士(経営学)

<略歴>

1973年金沢市生まれ。東京大学卒、米ハーバード大学大学院修了。通商産業省(現経済産業省)入省後、インド駐在、タイ王国政府顧問を経て、長崎大学教授、タイ工業省顧問、大阪府参与等を歴任。2020年4月より現職。この間、グローバル経済戦略立案や各種国家プロジェクト立ち上げ、日系企業の海外展開を通じた「破壊的イノベーション」支援を数多く手掛け、世界に伍するアントレプレナーの育成プログラムを開発し、後進世代の育成を展開中。

参考:地政学的に重要「シリグリ回廊」―インド北東州のポテンシャルとIITグワハーティー(Guwahati)①

「アクト・イースト」の意味するところ

このインド北東州がなぜ重要な位置づけをもっているのか?前回は、地政学的な位置づけ、隣国との関係性において重要な「国境」であるという点を強調したところである。今回は、この地域の重要性を認識した日印外交上の位置付けを俯瞰するとともに、その展望を明らかにしよう。

日本とインドは、「戦略的グローバル・パートナーシップ(Japan-India Strategic and Global Partnership)」を掲げ、それぞれの首脳が相手国を訪問し合うシャトル外交を展開してきた。その際、注目すべきは、インドが掲げる「アクト・イースト政策(Act East Policy)」である。これは2014年に誕生したナレンドラ・モディ政権の外交指針であり、東アジアとの経済連携強化などの関係強化、積極外交を図るというものであるとされる。なぜ、この外交政策が重要な意味を持つのか?それはインドが西欧なのか、東洋なのか、という本質的な問題にもかかわるだろう。最近はどうか不明だが、筆者が初めてインドに接した2000年代初頭、グローバルに活躍される人で、どの国よりも先に、「初めての海外出張がインドです」という人は珍しかった。もちろん、バックパッカーの聖地でもあり、その手の「つわもの」の間ではそのような経験があったのかもしれないが。少なくとも仕事で初めての海外がインドというのは珍しかったのではないか。それは、インドとの物理的、心理的、ビジネス的近接性という観点からそのような状況に置かれていたのだろう。

その意味で、インドに訪問する前に、他国を理解し、または生活したような人であれば、インドが如何に、洋の東西とも、良い意味で異質な存在であるという経験をした人は少なくないのではないだろうか。かくいう筆者も、大変面白いインド体験をさせて頂いた。初めてインドを訪問した時、これはヨーロッパでも、東アジアでも、或いは東南アジア諸国連合(ASEAN)や米国でもない、独特の分類不能な異質性が興味の源泉となったものである。

他方で、言語的には「インド=ヨーロッパ語族(Indo-European languages)」であり、またアーリア人の定住によって現在のインドが形成されてきた民族的系譜、さらには大英帝国の植民地として位置付けられた歴史のなかで、どちらかといえば、西洋的な雰囲気が存在したことも事実であろう。その意味で、逆にインドに存在していた、仏陀・仏教の故地であるというような東アジア、東洋的な性格は薄まっていた。この文脈で、この「アクト・イースト政策(Act-East Policy:AEP)」は軸足を東アジアにも向けていくという重要な政策であるといえるだろう。それは、かつてマレーシアのマハティール(Tun Dr Mahathir bin Mohamad)首相が主唱した、「ルック・イースト(Look East)政策」とも大きく異なる。日本や韓国の奇跡の経済成長に見習うという趣旨の包括的な経済政策の指針であり、特に日本の文脈では、同じような趣旨を含む場合もあるようだが、「アクト・イースト」のほうが、どちらかといえば、東アジアとの連携あるいは連結を模索するという点に力点を置いているように思われる。

ちなみに、マハティール氏を2018年の政権復帰前に一度長崎にお招きしたことがある。その際、直接いろいろお話を伺った。ちょうどオバマ大統領が、米国大統領として初めて広島を訪問した後で、オバマ氏の絶対的な平和主義の思想を学んだそうだ。90歳を超えるお年ながら矍鑠(かくしゃく)として後代をご指導頂き、激動する現下の国際情勢についても引き続きこうした見識を以て導く指導者の登場に期待したいところである。

日印首脳のアジェンダに

日印首脳会談の宣言では毎年、この北東州開発がアジェンダとして掲げられ続けてきた。特にモディ政権が誕生した2014年以降、この特徴が顕著となる。それが、前回紹介した2019年12月の幻となったグワハーティーでの日印首脳会談に繋がる。それは、この「アクト・イースト政策」において、インド北東州は、東アジアとの連結性を高めるための重要な回廊として位置付けられ、特にインドの「質の高いインフラパートナーシップ(Expanded Partnership for Quality Infrastructure:EPQI)」に裏打ちされる日印連携に進むこととなる。いわば、北東州という東アジアに開かれた回廊をどのように連結させていくのか、そのテーマに向けてインフラ整備が進められている。その代表的な協力として、日本のODA(政府開発援助)を活用した累次の「北東州道路網連結性改善事業」があげられる。2021年3月の有償資金協力の借款契約を果たした第5フェーズ事業については、152億円の資金が提供されており、第6フェーズ事業も2026年までの計画で進行中である。北東州の地域では、全道路の舗装率は約3割とされ、全インドの道路舗装率の平均約7割からも大きく後退している。また、国道のなかで片側1車線以上道路の比率は約5割程度しかなく、全国の片側1車線以上道路の比率平均約8割には至らない。

今から15年近く前、筆者はメガラヤ(Meghalaya)州のインドとバングラデシュとの国境付近の視察に行った際、地図のうえでは目と鼻の先にある目的地まで8時間近く時間がかかって大変な思いをしたことを覚えている。それ以上にこのドライブの間、一緒に同乗してガイドして頂いた同州政府の担当官が、全く息継ぎせずにしゃべり続けていたことに、感銘を受けたのを覚えている。インド人と日本人の性格を比較する古典的なジョークとして、「国際会議の名チェア(議長)の条件とは、インド人を黙らせて、日本人を喋らせること」というのがあるが、まさにそれを現実のものとして実感した瞬間であった。

連結性という文脈で、この北東州で注目すべきは、まさに先の大戦における日本軍が最終的にたどり着いた最西端がこの北東州であったという事実である。「インパール作戦」をめぐる顛末がそれを象徴している。筆者は、このインパール(Imphal)を州都とするマニプール(Manipur)州にもインド駐在当時、訪問させて頂いた経験がある。マニプール州の文化大臣の招待で訪問した。その際、マニプリーと呼ばれる現地の方々が、日本人に近い容姿で親近感を覚えたのを記憶している。ブータンやネパールの訪問でも、この地域の方々は日本人に近い顔立ちの方に出会うことが多く、日本人の祖先もこの地域から中国の雲南省にかけてのあたりから出てきた可能性を指摘する主張もある。稲作やかみたばこなど、いくつかの習慣の類似性も観察されている。アッサム州もそうであるが、豊かな竹林を控え、これらを建材や日常生活の道具の原材料として活用しており、こうした点も日本人には親近感がわく。また食事の多くがカレーになるのは少し異なるが、タケノコ料理などもあり、日本人にとっては、大変懐かしく感じるところがある。

インパールの位置 (筆者提供)

インパール作戦の最後の攻防が行われた場所は、州都インパールから15kmほどの場所で、「赤壁」ならぬ、「レッドヒル(Red Hill)」と呼ばれる丘があり、実際に訪問させて頂いた。その直前に旧日本軍が陣を敷いたとされる小高い丘が、国立公園のロクタク湖の間にぽっかりと点在しており、風通しの良いところであった。訪問した日本人一同、数時間、この戦争と平和、日印、あるいはインドと東アジアの過去と現在、そして将来の展望について思いを致したものであった。皮肉にも東アジアとのゲートウェイとしての重要性を証明したかたちとなった旧日本軍の行軍進路であるが、今後、日印連携の象徴的な場所として記憶され続けるだろう。次回は、こうしたインドと日本、或いは東アジアとの連結性を前提に、教育や人材育成、大学間協力の観点から北東州を再考していく。