2023年12月4日 JSTアジア・太平洋総合研究センター フェロー 斎藤 至
次世代エネルギーとしての水素の利活用は、日本でも水素閣僚会議が2018年より毎年開催され、新産業創出や国際標準の策定を巡って産官学を跨いだ議論がなされている。近年ではアジア・太平洋地域でも相次いで国家水素戦略が発表され、中でもオーストラリアは既報1のとおり、水素エネルギーの基礎研究と研究応用について先駆けた成果と構想を発表している。
インドでも、急激な経済発展に対応した環境配慮型技術の社会実装が課題として認識されており、徐々に研究開発が進みつつある。先んじて、インド科学技術庁(DST)は2020年9月に、『燃料電池および水素エネルギーに関する現状報告書』(以下『インド現状報告書』2)を公表し、その世界に占める位置や代表的研究者を明らかにしている。本稿では同報告書を中心に研究開発動向を概観し、その目覚ましい発展のポテンシャルを探る。
水素を生成し熱源・動力源として利用することで新事業を創出する「水素経済」は、多様な原料に対して化学反応を促して水素を製造し、貯蔵・応用する一連のプロセスである。全貌を概念的に示せば図1のようになる。このように水素生成のための化学反応には多様なプロセスが用いられる。
図1 水素経済の全体像
『インド現状報告書』9ページ、環境省(日本)各種資料を参照し筆者作成
しかし、水素の生成に伴うコストは反応プロセスごとに著しく異なる。インドの新・再生可能エネルギー省(MNRE)によると、インド国内での水素生成コストは表1の通りであり、中でもバイオマス微生物やアルカリ電解槽を用いた生成は極めて高コストと把握されている。
表1 インド国内における水素生成のコスト
図1に同じ。なお、1ルピー=1.8円
国際エネルギー機関(IEA)が発表している「資源別総エネルギー供給の推移」によると、インドでは過去30年にわたり総供給に占める石炭の割合が増え続け、2020年には43.5%を占めている(図2)。一方、再生可能エネルギーの利用は現状低位ではあるが、2000年代に入って水素の利用が漸増し、2020年には対2000年比で2.16倍となった。今後も更なる増加を期待したいところである。
図2 資源別総エネルギー供給の推移
https://www.iea.org/countries/india より筆者作成
なお、一次エネルギー消費の内訳(2016年)で見ても、石炭は全体の57%を占めている。バイオマス(生物由来資源)燃料の絶対量は1.33億toe(1990年、石油換算トン)から19.2億toe(2016年)へと増加するも、割合は減少傾向にある。実用においては石炭よりも二酸化炭素(CO2)排出強度が低い廃棄物系・未利用系のバイオマス燃料が有望と考えられている3。
インドの研究開発を支えるのは、日本の国家水素戦略同様、2023年1月に発表された「国家水素グリーンミッション4」である。このミッションでは、グリーン水素燃料の生成・供給において世界の拠点となるべく、2030年までに最低年産500万トンのグリーン水素製造能力を開発し、それに伴い国内で約125GWの再エネ容量を追加することを目指している。この移行への戦略的介入プログラムとして、1,749億ルピー(約3,148億円)の予算のもと、水電解装置の国産化とグリーン水素製造について、それぞれ異なる財政インセンティブが提供される予定だ。具体的には水素関連の実証事業に146.6億ルピー(約264億円)、研究開発に40億ルピー(約72億円)、そのほか38.8億ルピー(約70億円)を投じる計画である。
インドの研究機関というと、たびたびメディアでも取り上げられるインド工科大学(IIT)が代表的である。『インド現状報告書』には、IITの分校をはじめ数十に及ぶインド国内ラボの研究開発動向が紹介されている。
水素生成・水電解に関わるものでは、このほか、インド科学技術省科学産業研究評議会(CSIR)の中央電気化学研究所(CECRI)は、1953年にCSIR12番目の研究所として設立され、歴史ある研究機関である。チェンナイとマンダパムに地域アウトリーチセンターを設け、電気化学関連の科学技術を網羅するとともに、近年では燃料電池や水電解の技術開発に注力している。
CSIR-CECRIで現在進行中の、水素に関わる主な研究開発プロジェクトには以下がある(表2)。水素ガスセンサーの研究が2テーマ、水素貯蔵合金が1テーマ、銅の電解精錬が1テーマ、光触媒が1テーマ、そしてShri S. Mohanをリーダーとする水電解槽400Wプロトタイプ開発が1テーマである。
表2 CSIR-CECRIの主な研究開発プロジェクト一覧 (2023年11月現在)
https://www.cecri.res.in/ より筆者検索・作成
インドではこのように水素生成に関する技術の蓄積が始まっているものの、依然として世界最大級のCO2排出国の1つである。1990年以来、エネルギー源別のCO2排出量は約7割超を石炭が、約2割超を石油が占め続けている(図3)。
図3 二酸化炭素(CO2)排出量のエネルギー源別推移
図2に同じ。単位はメガトン炭素換算量
脱化石燃料への気運が国際的に高まる中、2015年に合意されたパリ協定に沿って、インド連邦政府は2070年までのCO2排出量ゼロという野心的な削減目標を掲げた。2022年にUNFCCC(国連気候変動枠組条約)締約国会議へ提出された長期低炭素発展戦略(LT-LEDS)では、純排出減を進める6つの重要分野を指定し、電気自動車(EV)シフトの促進、エタノール混合燃料利用を2025年までに20%に増、グリーン水素燃料の利用拡大などを表明した5。また政府のみならず、企業による取組も活発化している。環境非営利団体CDP Indiaが122社を対象として行った調査によれば、42社が自発的に導入する再エネ目標情報を開示した(2021年の25社から増加)、64社が自社のバリューチェーンにおいて低炭素エネルギーへの移行に関わる機会を認識した、と回答している6。
とは言え、昨今の一次産品価格の高騰で市場は逼迫し、世界第3位のエネルギー輸入国であるインドはエネルギー安全保障リスクに直面している。この下で低炭素社会への迅速な移行を図るには、国際社会からの支援が不可欠とされている。IEAによれば、2030年までに、インドのエネルギー経済全体で平均1600億ドル/年が必要(現在の3倍の投資水準)と見積もられている。廉価かつ確度の高い水素生成技術を早急に確立し、脱化石燃料へと舵を切ることが急務と言えよう。今や世界最大の人口を抱えるに到ったインドの研究開発の推移を引き続き注視したい。