【AsianScientist】 心臓研究にはジェンダーバイアスがかかっている

心臓の研究と治療に関わる女性が少ないため、心血管疾患は男性に多いという誤解が広く根強く存在する。アジアの女性研究者の中には、この誤解に挑戦しようと行動を起こす者がいる。(2025年6月11日公開)

2022年のある日の午後、60歳のレクシュミ氏は、ここ数週間胃炎と軽視していた胸の痛みに耐えかね、スクーターに乗って南インドの都市アレッピーにある自宅近くの私立病院へ向かった。病院の医師たちはいくつかの検査を行い、入院して総合検診を受けるよう勧めた。しかしレクシュミ氏はそれを断った。彼女は一人暮らしであり、アレッピー郊外に住む娘たちが一緒に来られるときに、再度病院に来たいと医師たちに告げた。

医師たちはレクシュミ氏に処方箋を渡し、帰宅させた。娘のラタ氏はレクシュミ氏からこの話を聞き、アレッピーに急いだが、そこで見たものは、母親が、この出来事にも動じることなく、キッチンで何事もなくチャパティを巻いている姿だった。ラタ氏はAsian Scientist誌に対し次のことを教えてくれた。ラタ氏が母親の容態について別の医師に相談したところ、その医師は処方箋を読み、母親はその日の午後に「心疾患イベント」が発生した可能性が高いと語ったという。心疾患イベントには、心不全や心臓機能を損なう損傷など、さまざまな心臓の病状が含まれる。

医師と会話した後で、ラタ氏はいくつかの疑問を持った。ラタ氏は「なぜ病院の医師たちは母を一人で病院から車で帰らせたのだろう? なぜあの日、家族に電話することを強く勧めなかったのだろう? もしもっとひどいことが起きていたらどうなっていたのだろう?」などといった疑問を思い出した。

レクシュミ氏の件は、心血管疾患 (CVD) の研究と治療における、ある体系的な問題を浮き彫りにしている。女性の存在感が低いため、女性の心血管の健康は、男性のそれよりも注意されないという医療文化が創り出されているのである。米国心臓病学会によると、CVDは歴史的に主に男性の病気と考えられてきたが、疫学研究では女性、特に閉経後でのCVDの発症率が高いことが分かっている。

2021年、ランセット誌はCVDは女性の死因の第1位でもあると報告した。それにもかかわらず、「女性の心血管疾患は、研究も認識も診断も治療も不十分なままである」とランセット誌は報告している。

ジェンダーギャップ

インドのインドールに所在するアポロ病院の上級心臓インターベンション医であるサリタ・ラオ (Sarita Rao) 氏は、Asian Scientist誌のインタビューで「一般的に、心臓病は『男性の問題』と誤解されています」と述べた。ラオ氏は、この誤解にはいくつかの要因が関係していると付け加えた。その一つは、「男性のCVDは、鋭い胸痛といった典型的な症状を呈することが多いのです」とラオ氏は説明する。「一方、女性は、倦怠感、めまい、息切れ、全身の不快感といった非典型的な症状を呈する傾向があります。多くの女性は症状を単に『気分が悪い』と表現するため、心臓疾患の特定が難しく、医師による診断が遅れることになります」

ラオ氏は、男女で症状が異なって現われる理由を理解するにはさらに研究が必要だと付け加え、「症状が現れてから病院に到着するまでの時間は、女性の方が男性よりも12時間遅いのです」と述べた。これは、女性は症状を無視したり、深刻ではないと思い込んだり、家族の日常生活を乱すことを避けたりする傾向があるためだとラオ氏は付け加えた。

ラオ氏は「この遅れが、急性心疾患における転帰不良の一因となっています」と述べた。女性の心臓疾患の過小診断や遅延診断につながる別の要因は、心臓研究における女性の参加率の低さである。American Heart Journal誌に掲載された2024年のレビュー研究によると、CVDの臨床試験における女性の参加率は依然として低い。しかし、この臨床試験の結果が、広範な集団を対象とした心臓の健康に関するガイドラインの作成に用いられている。

「心臓病の臨床試験の参加者のうち、女性はわずか20~30%に過ぎません」とラオ氏は述べ、この格差の背後には体系的な問題があると付け加えた。 「臨床試験の主任治験医師はほとんどが男性であり、女性の主任治験医師は少ないのです。女性研究者への資金援助が限られていることも、研究を率先する能力に影響を与えています。その結果、妊娠、更年期、ホルモンの変動といった生理学的差異があるにもかかわらず、男性中心の研究結果が女性に外挿されてしまうことが多いのです」

シンガポールのング・テン・フォン総合病院の心臓専門医であるジーン・オン (Jeanne Ong) 氏はAsian Scientist誌に対し「世界保健機関 (WHO) を含む多くの国際機関が、女性の健康にさらに注目するよう要望しています。これはまさに、ジェンダーの包摂性を高め、ジェンダーギャップを解消するための第一歩です」と語った。「しかし、このような取り組みに続いて、性別に特化した研究への資金提供の拡大、研究チームにおける女性のリーダーや参加者の増加、そして個々の患者が貢献できることについての教育など、心血管疾患の研究と設計のあらゆる面について変化と意識向上が欠かせません」

地域に密着した研究が足りない

女性はどの年齢でも心臓病を発症する可能性がある。だが、2023年にArchives of Medical Science誌に発表された研究によると、閉経後はそのリスクが大幅に高まる。閉経前は、女性の性徴の発達を助けるホルモンであるエストロゲンが、心臓病の発症を遅らせ、予防効果を発揮する。この研究は、CVDのリスクを軽減するための早期介入を実施できる中年期の女性の健康をモニタリングすることの重要性について力説している。

オン氏によると、医学界は閉経後の女性の心臓の健康に徐々に注目するようになってきているが、心筋の一時的な衰弱によって引き起こされる心臓発作やブロークンハート症候群など、若い女性の心臓疾患については依然として十分な研究が行われておらず、治療ガイドラインも通常は女性に特化したものになっていない。

2022年にJournal of Global Health誌に発表された報告によると、南アジアは世界のCVD負担の約60%を占めているため、この地域では、心臓の研究と治療における女性の参加率が低いことが特に深刻なものとなっている。高血圧はCVDの大きな危険因子の一つである。高血圧の有病率は、南アジアの女性が最も高いのだが、この地域では女性の心臓の健康に関する研究は十分に行われていない。

「この分野の臨床研究のほとんどはインド国外で行われています。ある程度の情報はインドの学術誌で知ることはできますが、インドの女性が直面する特有の課題に対処するには、より包括的な研究が必要です」とラオ氏は述べる。

道を切り開く

心臓研究と治療におけるジェンダーギャップに気づいた女性研究者たちは、その解消に向けて活動を始めている。例えば、シンガポール国立心臓センターの心臓専門医であるキャロリン・ラム (Carolyn Lam) 氏は、2016年に女性心臓クリニックを設立した。シンガポールのKK母子医療センターが発表したプレスリリースの中で、ラム氏は「私たちは、女性のニーズをサービスの『心臓』とし、多くの女性が自身の心臓の健康を管理できるようにすることを目指しています」と述べている。

ラム氏と同様に、ラオ氏とオン氏も、女性に心臓の健康について教育し、心臓病の症状を認識することの重要性を力強く語る。そうすれば、レクシュミ氏のように疲労やめまいなどの危険な兆候を無視することなく、心電図などの基本的な診断検査を受けることができるようになる。ラオ氏はまた、心血管疾患は主に「男性の問題」であるという誤解を払拭するために、アジア全域で継続的な啓発キャンペーンを実施することを提唱している。

上へ戻る