「脳の構造とネットワークに関する研究と科学技術」~原理究明・メカニズム解明から自然環境との調和に向けて~オーストラリアの科学技術シリーズ⑦

2023年12月18日 三田 雅昭(JSTアジア・太平洋総合研究センター フェロー)

はじめに

オーストラリアでは、医薬・ワクチン・ゲノム分野で文献報告数の世界シェアが4%超、情報通信・サイバー分野でも同様に4%を超えており、研究が盛んな技術分野である[1]。そこで本稿では、これらの重複領域である脳に関連する研究に注目する。

技術者の一人として脳の研究に初めて触れたのは、脳を考える叢書「脳の可塑性と記憶」1987年 塚原仲晃著[2]である。当時、脳回路における記憶と学習のメカニズム、次に記憶の基礎にある脳神経のシナプスの働き、そしてその驚異的な柔軟性を紹介した著述に鮮烈な印象を受けた。

それから36年を経て脳科学は進歩し、人工知能(AI)に関する研究がゲーム・自動制御・ロボット・生成AIという応用研究に結びついている。2000年代半ばの次世代シーケンサーの実用化とともに、ゲノムレベルの解析が加わり、現在は分子・細胞・脳というマルチスケールな研究に発展している。神経回路網である脳の働きの研究から意識や心の問題、そして精神疾患の解明をも目指している。さらに、研究対象は体内から外へ、古代ゲノム解析に基づく人類と生物の進化史、そして人と自然環境との調和を研究する生態学的現象学など、脳の研究はさまざまな領域に発展している。

図1 神経細胞はシナプスによって結合し、神経回路を形成
参照: https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20150122_01/index.html

1. 文献報告数にみる脳に関連する研究

文献データベース(Web of Science Core, TOPIC)では、オーストラリアによる文献報告数および世界ランクは顕著に上位である。10年間2013-2022の高被引用1%文献数に拠り整理すると、オーストラリアはゲノムでは米中英独に続き5位、ニューラルネットワークでは米中英に続き4位、精神疾患では米英に続き3位である。一方、日本はシナプス8位と脳回路5位であるが、この2分野を除いてオーストラリアは高被引用1%文献数にて日本より上位である。

表1 オーストラリアの文献報告数(脳科学関連、2013-2022、高被引用1%)
検索キーワード HCP1%世界順位 HCP1%文献数
ゲノム genome 5位 650
ニューラルネットワーク neural network 4位 447
神経科学 neuroscience 6位 431
深層学習 deep learning 5位 295
人工知能 artificial intelligence 5位 153
精神疾患 mental illness 3位 101
神経疾患 neurological disease 8位 85
脳科学 brain science 7位 23
脳回路 brain circuit 11位 23
シナプス synapse 14位 12

2. 脳と情報の処理

脳とコンピュータを比較すると、例えば、目でみた映像を電気信号に変えて視神経を経由して画像として認識・記憶することは共通である。情報処理速度では、コンピュータが扱う情報は全て0か1で表現されるデジタル情報であり、速く正確で、曖昧さや適当さがない。一方、脳はコンピュータに比べて遅く正確さに欠けるが、不完全な情報をもとに答えを出すことや、ひらめきができる特徴がある。情報処理方法でみると、コンピュータは中央演算装置において一つずつ順番に情報を処理している。脳は同時並行的に情報を処理している。脳の神経回路はとても複雑であり、記憶や感覚などについてデジタル情報とアナログ情報を混合して処理している。また、コンピュータの情報処理回路は固定であるが、脳は回路自体を日々変化させることができる。

このように人間のニューラルネットワークに関する研究が、脳の中の情報処理メカニズムを解明する取り組みに繋がっている。量子コンピュータでは、従来のコンピュータを超える高い処理能力と高エネルギー効率を目指して、入力に対して並列的計算を実行し、1つ1つの計算時間が短いのではなく、計算回数が少ないことで全体としての処理速度を高める研究が進んでいる。

ちなみに、脳に関連する新興技術(AI・生物・量子計算・サイバーセキュリティ)に注目すると、オーストラリアは文献報告数(1990-高被引用1%)において、世界上位である(表2)

表2 オーストラリアの文献報告数(新興技術関連、1990-高被引用1%)

3. 心の病の解明に向けて

フロンティアの一つである体内では、脳の研究から精神疾患の解明に挑む研究が進められている。多くの現代人を苦しめる心の病は、脳の変化から生まれると言われるが、何が原因で、どのようなメカニズムから生じるのだろうか?

研究の最前線では、さまざまな角度から精神疾患の解明が進められており、疾病変化の原理究明とメカニズム解明、そして治療法の開発に取り組んでいる[3]。物質科学をもとにした材料研究と共通する手法が採用されており、実験工学・計測工学・計算科学・データ科学など、近年の技術革新を駆使している。構造解析では、脳回路(組織)・シナプス(細胞)・ゲノム(分子)という3階層(マルチスケール)を組み合わせて解析している。現象解析では、ヒト遺伝子研究・脳画像観察・iPS細胞による再現実験・モデル動物による機能検証、そしてビッグデータ解析が実施されている。このようなマルチスケール・マルチフィジックス・マルチフィールドを意識した融合領域において脳の研究が発展し、心の病に迫っている。

脳科学の研究では、発達障害の自閉スペクトラム症(ASD)、同じく注意欠如・多動症(ADHD)、そして心的外傷後ストレス障害(PTSD)および双極性障害(躁うつ病)などが、精神疾患として分類されている。一方、神経変性疾患には、パーキンソン病、アルツハイマー型認知症および筋萎縮性側索硬化症(ALS)などがある。脳の変化が心にどう影響するのか、「精神疾患では神経細胞の顕著な細胞死は見られないが、神経変性疾患では、脳や脊髄にある神経細胞が細胞死を起こす。但し、分子レベルの変化から神経細胞機能低下という発症までの経過には共通点がある。」[4]という。そこで、前触れ症状を早期発見し、異常タンパク質の蓄積や分子レベルの変化を食い止める治療薬が登場している。

4. 人と自然環境との調和

人間を対象とした研究では、著名なシリコンバレーの起業家であり、ベンチャーキャピタリストであるピーター・テイルらが、老化防止(anti-aging)・不老不死(immortality)の実現に挑戦している。その研究では、疾病や寿命によって痛んだ機能の回復とともに、人間の能力を拡張する可能性が示されている。

一方、脳とコンピュータをつなぐ技術「ブレイン・コンピュータ・インターフェイス(BCI)」では、イーロン・マスク氏が共同創業したニューラリンクや、ベゾス氏やゲイツ氏らが資金を投じるSynchronなどが注目されている。米食品医薬品局(FDA)から人間を対象にした臨床試験の実施承認を受けて[5]、BCIの技術は重度の障害を持つ患者のコミュニケーション能力回復などでの活用が期待される。このようなBCI技術では、情報伝達を有線から無線ネットワークに置き換えることにより、個体間のコミュニケーションが超人(esper)のように実現できる可能性を示している。人と人のネットワークに加えて、人と生物の間のコミュニケーションの可能性も示されている。

そこで、脳と外界との関係、人と自然環境の関係に注目すると、オーストラリアでは生態学や現象学の研究が実施され、そのレベルは高い(表3)。生物多様性、植物や動物の生態学、森林や海洋の環境、そして生体ネットワークの相互依存など、生態学的構造や共生現象について研究が実施されている。

表3 オーストラリアの文献報告数(生態学・現象学関連、2013-2022、高被引用1%HCP)
検索キーワード HCP1%世界順位 HCP1%文献数
生物多様性 biodiversity 4位 406
生態学 ecology 5位 234
生体ネットワーク biological network 7位 67
オミックス omics 5位 46
認知科学 cognitive science 6位 40
共生 symbiosis 6位 38
海洋生態学 marine ecology 4位 29
環境遺伝子 environmental genomics 7位 15
現象学 phenomenology 12位 11
相互依存 interdependence 6位 11
森林生態学 forest ecology 3位 4
先住民族 aboriginal 1位 9

おわりに

2000年代半ばの次世代シーケンサー[6]の実用化とともに、ゲノムレベルの解析を加え、脳の研究は分子・細胞・脳というマルチスケールな研究に発展している。神経回路網である脳の働きの研究から、意識や心の問題、そして精神疾患の解明をも目指している[4]。さらに、研究対象は体内から外へ、古代ゲノム解析に基づく人類と生物の進化史[7] [8]、そして人と自然環境との調和を研究する生態学的現象学[9]など、脳の研究はさまざまな領域に発展している。

仏教用語には、因縁果(いんねんか)という言葉がある[10]。地域紛争、民族紛争、覇権争いが止むことがない地球上において、脳の研究を通じて、人と人の関係はもちろん、生物と自然環境との関係が、互いに柔軟に調和しながら共生することを願ってやまない。

上へ戻る