2023年01月11日
樋口義広(ひぐち・よしひろ):
科学技術振興機構(JST)参事役(国際戦略担当)
1987年外務省入省、フランス国立行政学院(ENA)留学。本省にてOECD、国連、APEC、大洋州、EU等を担当、アフリカ第一課長、貿易審査課長(経済産業省)。海外ではOECD代表部、エジプト大使館、ユネスコ本部事務局、カンボジア大使館、フランス大使館(次席公使)に在勤。2020年1月から駐マダガスカル特命全権大使(コモロ連合兼轄)。2022年10月から現職
パスツール・ネットワーク(PN)にはいくつかの特徴がある。第一に、このネットワークが一時に出来上がったものでなく、130年もの長い期間をかけて徐々に形作られ、拡大・発展してきた歴史的な成果物であることである。パスツール研究所が創設されてから3年後、1891年にベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)にフランス本土外で最初のパスツール研究所(IP)が作られた。事実上のPNの始まりである。サイゴンIPの創設者は、BCG(カルメット・ゲラン桿菌)にその名をとどめるレオン・シャルル・アルベール・カルメットである。カルメットは後にパリIPの所長代行も務めている。その後、同じくベトナムのニャチャン(1895年)とハノイ(1925年)にもそれぞれIPが作られた。
この時期にベトナムにIPが集中的に開設されたのは、当時フランスによるインドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)統治の拠点がサイゴンに置かれたことが歴史的背景にある。また、アフリカはPNの中心地域の1つとなっているが、参加メンバーはやはり旧フランス植民地が目立つ(チュニジア、アルジェリア、マダガスカル、セネガル、モロッコ、カメルーン、中央アフリカ、コートジボアール、ニジェール、ギニア(創設順))。このように歴史的に見た場合、IPの海外展開はフランスの植民地政策の一環として始まったと言えよう。
第二次世界大戦以降、IPメンバーはアジア・太平洋を含め世界中に徐々に拡大していった。2000年以降にも7つのメンバー機関がIPに新たに加わっている。IPはフランス語圏以外の国も含むグローバルなネットワークへと成長を遂げた。
パスツール・ネットワーク(PN)
PNのメンバー機関は、各国における独立の公的または私的な研究所・保健医療施設であり、その成り立ちやステータス(法人格の有無等)も様々である。歴史的な経緯からパリIPのいわば「在外機関」として作られたものもあれば、既存の現地機関が「パスツール」という冠の下でネットワークに統合されたものもある。
2つめの特徴は、異なるメンバー機関の間の統合原理としての「パスツール的価値(Pasteurian values)」である。人道主義、普遍主義、厳格と献身、イニシャティブの自由、知識の伝達、情報への自由アクセス等がネットワーク参加メンバーをつなぐ共通価値として謳われている。
3つめの特徴は、パリのパスツール研究所(パリIP)の主導的な役割である。技術面と資金面でパリIPがPNにおいて指導的な役割を果たしていることは現在でも厳然たる事実である。ネットワークの活動を支える資金的な裏付けは多くの場合、パリIPが担っている。PNの枠内で実施される教育・訓練、人材育成等の事業についても、人的・技術的な面を含めてパリIPが主導するケースが多い。
4つめの特徴は、3点目とやや矛盾することになるが、PNが極端な中央集権型のネットワークではなく、参加型でバランスのとれたネットワークを目指していることである。パリIPが主導的な役割を果たしつつも、パリIPをハブとする完全な「ハブ&スポークス型」ではなく、パリIPを含めメンバー機関の間のより分散的かつ参加的なつながりと協力関係を重視している。
このような方向性は、コロナ禍の経験を通じて特に明確化され、2021年にはネットワークのガバナンスについて大幅な見直しが行われた。名称は、それまでの「パスツール研究所国際ネットワーク」から「パスツール・ネットワーク」に改称され、フランスの1901年結社法の下で「結社(association)」として法人格も獲得した。PNの会長(President)は、世界4地域から2名ずつ計8名の理事会メンバーの中から選ばれ、別途パリIP所長はその職責でPN副会長を務めることになった。現在、PN会長はダカールIP所長が務めている。この見直しに伴い、PNの活動により大きな自由度を与えるために新たな基金(foundation)がパリIP内に作られた。自らが基金組織であるパリIPの中に作られた基金であることから、「sheltered foundation(保護された基金)」と称される。パリIPに格納された「入れ子」基金のイメージであろうか。associationとしてのPN本体組織のガバナンス体制とは逆に、この基金の会長はパリIP所長が務め、PN会長は副会長に回ることが定められている。パリIPは、この新たな基金のseed fundとして5百万ユーロを拠出した 1。
PNの具体的な協力活動としては、生物医学研究、公衆衛生活動、教育・訓練、ビジネス開発と技術移転等がある。ネットワークは、技術的なプラットフォームと科学的知見を共有しつつ、科学的な卓越を目指して協働する。
医学研究のイメージ写真
PNは、国際科学協力の発展のための優れた基盤を提供するユニークなモデルとして、公的保健におけるグローバルアクターとしての役割を果たすため、その特徴と強みを踏まえた野心的な集団科学戦略、具体的には4つの科学プライオリティを定めた(2017年)。
研究機関の本来業務として、PNメンバー間の共同研究等を通じて具体的な成果を追求することが重要であることは言うまでもない。同時に、メンバーに開発途上国の機関が多いことから、グローバル・ネットワークとしてのPNの意義は、教育・訓練、人材育成の面で特に大きいと思われる。2006年のSARSと2014年のエボラ熱等の経験を通じて、新興感染症のモニターと制御、対応のための各国の公衆衛生キャパシティの強化の必要性が改めて明らかになった。PNは各国の現地関係者の監視・モニタリング能力の強化のための教育・訓練事業を積極的に実施している。
国内に十分な研究・医療施設が存在しない多くの開発途上国のPNメンバー機関にとって、PNを通じて提供されるキャパビル事業は、様々な制約の中で自らの組織的・人的機能を継続的に維持・向上させていくための「命綱」とすら言える。開発途上国のPNメンバー機関がその国の政府や市民からいかに信頼され、また頼りにされているかについては、直近に勤務したマダガスカルでの新型コロナの経験の中で、筆者自らも直接目撃してきたことである。マダガスカルIP(1898年創設)は、ウイルス解析をはじめとして、同国における新型コロナ対応において主導的な役割を果たしていた。
PNはまた、国際科学コミュニティの科学者がその知識と技術を向上させるための訓練プログラムも提供している。PNを通じて実施されるワークショップ、訓練コース、MOOCsの質を国際的に認証するため、2019年にはPIC(Pasteur International Courses)ラベルが設けられた。若手研究者育成プログラムとして、パリIPの支援によってポスドク研究員がPNメンバー組織において4年間に亘って研究活動を実践し、研究者として独り立ちすることを可能とするプログラム(4-year Research Groups(G4s))も実施されている。
PNは各メンバー機関にとって、キャパビルや知識・施設の共有等について、それぞれが具体的なメリットを引き出すことができるネットワークである。PNの各メンバーにとって、特にパリIPによる協力と支援は貴重であるし、様々な研究や活動について、地域内あるいは地域外の他のメンバーとつながり、必要な情報や協力が得られることのメリットは大きい。
一方、パリのIPにとっては、世界中に張り巡らされたネットワークを通じて、各地の風土性の新興感染症等に関して最前線の情報が入手可能となるメリットがあるだろう。PNを通じて共有される、「現場感覚」を含めたこうした貴重な情報は、パリIP自らが感染症等に関するグローバルなトップ研究機関としてのレリバンスを維持・強化していく上で死活的に重要であろう。歴史的に植民地政策と並行する形で始まったPNは、時代の変遷と共に姿形を変えつつも、当初からあったと思われるその「戦略性」を今も密かに秘めているように見えるが、どうであろうか。