2023年8月17日 聞き手 科学技術振興機構(JST)参事役(国際戦略担当) 樋口 義広
国際頭脳循環シリーズの今回のインタビューでは、物質・材料研究機構(NIMS)のウー・ラダー主任研究員に話を伺った。
物質・材料研究機構(NIMS) ウー・ラダー主任研究員
ウー・ラダー氏は台湾で生まれ育ち、中学卒業後に家族とともにカナダに移住した。台湾と中国の間で緊張が高まったことがきっかけだったが、高校に入ると成績が伸び、卒業後、カナダでトップクラスのブリティッシュコロンビア大学(UBC)に進んだ。西海岸の大学で、家から近く、地理的に台湾にも比較的近いということも理由だった。大学に入ってからは勉強漬けの毎日だったという。
「大学では学生の6割以上がアジア系でした。成績の悪い学生の4割は、もう1年間勉強をしなければいけないシステムでしたので、常に競争が激しく、サークル活動もできずに毎日勉強ばかりしていました。材料工学の学生は入学時に48人ほどいましたが、卒業時は十数人になりました」
日本を初めて訪れるきっかけは偶然だった。2002年、授業後に質問するためにロジャー・リード(Roger Reed)教授の部屋を訪れたところ、そこにNIMSからインターンシップの学生を求める電話がかかってきていた。教授に教材の内容について尋ねたところ、「この教材を10年間使っているが、間違いを指摘した学生は初めてだ」と言われた。その縁でインターンシップの学生としてNIMSを訪れることになった。
NIMSでは8カ月間にわたり、リード教授とケンブリッジ大学で一緒に研究したことがあった原田広史氏(現・特命研究員)の研究センターでインターンシップを行った。その後、UBCを学部1位の成績で卒業すると、リード教授が異動した英国のインペリアル・カレッジ・ロンドンに進み、Ph.Dを取得。そして2009年にフェローとしてNIMSのICYS(若手国際研究センター)に入ることとなった。
「当時はNIMSやドイツの政府系研究機関などに応募して、英国、ドイツ、カナダ、日本の4カ国からオファーが来ました。『21世紀はアジアの時代』と言われていて、ずっとアジアに戻りたい気持ちがあったこともあり、NIMSのICYSに行くことにしました。ICYSはポスドクが目指す日本最高峰の機関と言われていてほとんどのフェローは、最初は他の大学や研究所でポスドクの経験を積んでからICYSに入ります。当時、私は卒業してから直接ICYSに入った初めてのケースでした。2011年までの約2年半、ICYSで研究した後、NIMSの定年制研究員に採用されました」
ICYS在籍中には東日本大震災が発生。NIMSにいた海外研究者の多くが一時的ないし最終的に帰国する中、ウー氏はNIMSにずっととどまった。英語と中国語で放射能のレベルや重要な情報をラジオで発信し、公益社団法人科学技術国際交流センター(JISTEC)から感謝状をもらったという。
ウー氏はUBCに進学した時から材料工学に強い興味を抱いていた。
「研究開発を根本的に変革するには、やはり材料や素材を切り口としなければ大きな発見ができないのではないかとの思いがありました。特に断熱材にはずっと興味がありました」とウー氏は振り返る。
「新しい技術の開発はリードタイムがとても長く、実際に社会に貢献できるまでに5年とか10年もかかります。しかも、技術が実際に採用されなければ全く貢献できません。現在は企業もESG(環境・社会・ガバナンス)戦略を採用し、エネルギー使用量の削減などにより二酸化炭素(CO2)排出量の削減目標を設定しています。それを速やかに実現するためには、新しい技術の導入も大切ですが、まずは現在の電気消費量を削減しなければならない。その観点で断熱材は非常に重要です。良い断熱材を使うことで電気量の2~3割はすぐに削減できます。最近、ベンチャーを設立してからたくさんの問い合わせを受けますが、そのほとんどは工場等の電気消費量の問題についてです。断熱材の研究を通じて、確実に社会貢献できる可能性があるという手ごたえを感じています」
自ら開発したエアロゲル断熱素材を紹介するウー・ラダー氏
2011年にNIMSの定年制研究員に採用された際、当時の潮田資勝理事長から、若手研究者としての可能性を広げるために新しいテーマを探すよう勧められた。ウー氏はスイスの政府系研究機関でNIMSの姉妹研究所であるEMPA(スイス連邦材料試験研究所)で3回に分けて計2年間、断熱材の材料研究開発を行った。NIMSに戻ってから、EMPAで学んだ知識に基づいて、新たなオリジナリティを加えてTIISA®という超断熱素材のコア技術を開発し、特許を出願した。
「断熱性能について、金属は水より熱伝導率が高いことはよく知られていますが、カーボンやシリコン、鉄などの元素毎で構造による熱伝導率の依存性があります。それを細かく計算すると、材料の構造毎の限界が分かりました。そして、特殊な構造をつくることによって、今までの限界を超えることに成功しました。構造を根本的に変えるという発想が成功につながったのです」
「今までの断熱材は固体で空隙率が高く、その部分の熱伝導率は高くなります。私たちが発明した断熱材は、一つ一つの粒子を微粒子化し、粒子の表面を超撥水に修飾して、粒子同士が接触しないようにして、熱が伝わりにくくなり、断熱効果が良くなります」
この新素材TIISA®をベースとして、ウー氏はベンチャー企業Thermalyticaを2021年に設立し、自らCTO(最高技術責任者)となった。2022年には、日本のVC(ベンチャー・キャピタル)と共にNIMSからも出資を受けた。NIMS発ベンチャーとしては16番目で、NIMSが自ら出資するベンチャーとしては初めてであった。
「ベンチャーを設立しようとした時、創業に興味を持っている研究者は周りにおらず、相談できる人がいませんでした。起業に当たっては、いろいろな勉強が必要で、資金調達やビジネスプランも作らなければいけません。IPO、上場、あるいはM&Aまでの明確で具体的な計画を作らなければ誰も出資してくれません。この点ではかなり苦労しました。幸い、当時の橋本理事長がクロスアポイントメント制度をベンチャーにまで拡張して下さり、現在の宝野理事長の下でNIMS外部連携部門、人材部門がベンチャー支援にさらに積極的に取り組んで頂いておりNIMS全体から応援されていると強く感じています」
TIISA®を使った断熱塗料は断熱性が高く、企業からの問い合わせも多い。現在は少量のサンプル提供を行っているが、近く本格的な製造販売を予定しているという。また、ウー氏はさらにエアロゲル断熱素材を使ったB2B2C及びB2Cの商品開発も進めている。
「これからは熱の時代です。新たな断熱素材の開発はニーズが高く、スタートアップ企業にもチャンスがあると感じて。この4月に経済産業省のJ-Startupに認定されました。NIMSとJ-Startupのブランド力も活用して、高性能断熱素材の開発戦略を展開していきます」
「次回の資金調達では海外の投資家を入れたいと思っています。当初、そのためには米国に進出する必要があると言われましたが、この半年で状況は大きく変わり、今は日本への投資資金の流れが大きくなっています。日本企業のままで米国等からの資金を得られる可能性が高まっています」ウー氏の口調からは、この素材のベンチャー開発にかける強い思いが伝わってくる。
「日本では製造業はもちろん引き続き重要ですが、より重要なのは新たなコア技術を開発し、IPを獲得することです。日本が、製造コストで、中国や台湾、東南アジア等に勝つことは難しいでしょう。IPを目指した研究開発を進めるとともに、製造は他の国に任せるというビジネスモデルは、基本的に正しいと思います」
ウー氏の生い立ちや経歴を見ると、彼自身が「国際頭脳循環」を体現しているように見える。そんな彼に、日本の研究環境について聞いた。
「日本の研究機関の環境は、かなり国際化していると感じます。NIMSでも、私がインターンシップで初めて来日した2002年と比べて英語化が大きく進んでいます。ただ、日本は公用語が日本語なので、やはり限界があります。国際化はシンガポールのレベルまではいかないと思います」
「日本にいる外国人研究者や学生は、日本での研究を自分のキャリアの一つのステップとして考え、いずれ自分の国に戻るつもりの人が多いのではないかと思います。私自身も、もしここでベンチャーを立ち上げられなかったら、どこか別のところに行く可能性が高かったと思います。基礎研究も大事ですが、私は、応用研究の方により大きな興味があり、NIMSで5年、10年のスパンで頑張って研究した成果で社会に貢献したいという思いが強いのです。定年制研究員への採用の際にも、そのようなヴィジョンを語り、それができなかったら別のどこかへ行くかもしれないという意見を素直に述べて採用されました」
では、日本で研究環境を国際化し、優れた海外の研究者を呼び込むためにはどうすれば良いだろうか。
「海外からの研究人材にとって、日本で研究者を続けるだけではキャリア展望として必ずしも十分魅力的でないかもしれません。研究の先に、研究の成果を使ったベンチャーなどの創業や社会貢献という『出口』がちゃんと見えることが重要だと思います」
「OIST(沖縄科学技術大学院大学)や国立の研究所を含め、日本が研究だけでなく、起業しやすい環境になっているということを海外の研究者に向けて積極的に発信すればよいと思います。日本で研究をして、うまくいけばその成果を使って起業でき、大きな達成感が得られる可能性がある。こうしたことを伝えることは非常に大事だと思います」
ウー氏は、日本にはこれから「追い風」が吹くと感じていると言う。その理由として、生活面や社会の安全性、環境の良さなどを挙げた。
「欧米等では、今、社会の不安定な要素が増えています。アジアの中で、あるいは世界的な流れの中で、社会的な安全と安定が比較的保たれている日本には今後ますます追い風が吹くのではないでしょうか」
日本に関心がある海外の人に向けてのアドバイスやメッセージを求めたところ、ウー氏は次のように述べた。
「研究者は日本に来た方がよいと思います。一番の理由は生活の面、社会の安全性や家族、子どもの教育の面、環境の良さ等があります。研究環境については、日本語ができない研究者にとっては少し不利な面もありますが、科研費の採択は十分フェアだと思います。これが不公平になると海外人材は自分の国に戻ってしまいます。また、日本は起業の時代に入っていて、大学を卒業してすぐ起業する若者も多いです。これから日本はさらに良くなると信じています。海外の方々にも日本に来ることを大いに勧めたいです」
ウー氏は、NIMSのあるつくばを気に入っているという。「つくばは大変よいところです。研究と生活のバランスが大変よい土地です。大気汚染もなく、研究に集中できる環境があるだけでなく、バーや居酒屋など面白いところもたくさんあります。成田空港にも近いので、外国に行くのも便利です。人材やインフラが集積してきているので、今後は海外の先端企業が進出してくる可能性もあると思います」
研究室で自ら開発した断熱素材TIISA®を説明するウー・ラダー氏。素材を手のひらにまぶすと、高い撥水効果を示した。
ウー氏が流ちょうな日本語で熱心に答えてくれた我々のインタビューは、予定時間を大きく超えた。終了後、研究室を短時間覗きたいとの我々の急な申し出に、ウー氏は快く応じてくれた。インタビューの場所から少し離れた研究棟の片隅にある、決して新装豪華とはいえない研究室は、彼が立ち上げたベンチャー企業の本社でもある。
研究室でウー氏は、自らが開発した断熱素材(TIISA®)を、自分の手のひらにまぶして、その強力な撥水性能を見せてくれた。
カナダでの高校生時代にすでに創業の経験があるというウー氏がベンチャーについて語る時、その口調は一段と熱くなる。ベンチャーの見通しをはじめとして、あらゆることを前向きに受け止め、物事に積極的かつ真摯に取り組む姿勢は、たいへん印象的だった。ウー博士の益々の活躍を期待したい。
聞き手、樋口義広・JST参事役(国際戦略担当)
インタビューは2023年6月23日、茨城県つくば市のNIMSにて実施。
(編集:Science Portal China編集長 堀内信彦)
NIMSウー・ラダー主任研究員(右)と聞き手の樋口義広・JST参事役(国際戦略担当)
ウー・ラダー(Wu Rudder):
NIMS 構造材料研究センター 材料創製分野 超耐熱材料グループ 主任研究員
株式会社Thermalytica 創業者CTO
専門分野:超高性能断熱材、建築用断熱材、断熱材コーティング
<NIMS概要>
国立研究開発法人物質・材料研究機構(NIMS)
物質・材料科学技術に関する基礎研究および基盤的研究開発等の業務を総合的に行うことにより、物質・材料科学技術の水準の向上を図ることを目的としている。
NIMSホームページ: https://www.nims.go.jp/
【国際頭脳循環の重要性と日本の取り組み】
国際頭脳循環の強化は、活力ある研究開発のための必須条件である。日本としても、グローバルな「知」の交流促進を図り、研究・イノベーション力を強化する必要があるが、そのためには、研究環境の国際化を進めるとともに、国際人材交流を推進し、国際的な頭脳循環のネットワークに日本がしっかり組み込まれていくことが重要である。
本特集では、関係者へのインタビューを通じて、卓越した研究成果を創出するための国際頭脳循環の促進に向けた日本の研究現場における取り組みの現状と課題を紹介するとともに、グローバル研究者を引きつけるための鍵となる日本の研究環境の魅力等を発信していく。