ワクチンや新規モダリティの医薬品開発に脚光:タイのライフサイエンス(中)

2022年05月13日

ナレス・ダムロンチャイ(Dr. Nares Damrongchai)

ナレス・ダムロンチャイ(Dr. Nares Damrongchai):
バイオ産業アドバイザー

1995年 東京工業大学 生命理工学部 博士課程修了。2005年英国ケンブリッジ大学Master of Philosophy(工学部経営工学)修了。
1995年 タイ国立科学技術開発庁(NSTDA)研究員。APEC技術予測センター センター長、タイ国ライフサイエンス中心(TCELS)所長などを経て2021年、Genepeutic Bio社 最高経営責任者(CEO)に就任。

参考:医療の自立と健康の安全保障から新規産業の原動力へ:タイのライフサイエンス(上)

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が蔓延した2020年から2022年初頭までの間、実はタイがライフサイエンス分野において活発な動きを見せている。

このレビューは新しいCOVID-19ワクチンの開発から現地バイオベチャーによる新規モダリティの医薬品まで、タイの科学技術政策の変遷とライフサイエンスの現状を簡単にまとめる。

今回では特にタイ科学技術の体制改新、その理念、法規、ライフサイエンスの今後の課題、そして最近のバイオ技術を駆使したイノベーションの事例について触れる。

科学技術研究の政策一本化と行政団体体制改新

タイの総研究開発費(GERD)が1%を超えたいま、製品は輸出依存、優れた国産品が少ないのが現状である。ライフサイエンス分野では国内産業は製造が後発薬中心、従来の政策により価格やアクセスを優先してきた。

2019年よりタイ政府が今後の産業開発の方向をつける重要な理念を発表した。それがBCG経済モデル(バイオ・サーキュラー・グリーン)という理念だ。この理念を軸にタイの将来産業を興し、内的環境を整備することが急務である。同時に国際的な地位を向上させながら新しい市場を獲得するという政策を発表し、内外へ呼びかけた。

具体的にはこれまでの農業技術をより高度化・スマート化し、エネルギー・環境に関わる技術の開発と導入によって現在の産業を持続可能な産業に変えていく。この中でもバイオ技術によって現存する食品産業、そして未熟な医薬品や医療機器ないしサービスを含む医療産業それぞれの分野を未来対応型にすることが大きな柱の一つとも言える。

医療産業の市場規模は1.6兆バーツ(約5.6兆円)で、2020年において5%の成長を示した。5年先にこの市場はGDP(国内総生産)の実に24%に及ぶと予想される。これまで輸入に頼ってきた代わりに大部分を国内で供給しようとすれば、研究開発のみならず、ビジネスへの投資や規制整備など環境を大幅に変革しなければならない。

現に、プラユット首相が2022年2月に打ち出した意欲的な政策目標によると、2023年までにGDPを2000億バーツ(約7000億円)引き上げ、その大部分をBCG産業によって作り出すという。

この野心的な目標を可能にするには、これまで以上に内外の民間の活力を増していかなければならない。そしてこのBCG政策発表とほぼ同時に、約2年前に行われた科学技術・イノベーション行政体制の改新の成果にもかかっているところが多いだろう。

今回の行政改新により、科学技術・イノベーションに関連する各行政団体が新たに設立された「高等教育・科学・研究・イノベーション省」の傘下に統一されるようになった。それまで各活動の分散や重複の恐れを解消し、管轄・任務・予算の分配がより明確になるとともに、国の課題に応える政策的方向性の一本化体制が狙いだった。

2019年制定の科学・研究・イノベーション振興法により、関連行政団体が以下の任務のいずれかに専念することになった。

  1. 1. 政策策定・政策提案・国家レベル企画及び研究予算配分
  2. 2. 研究費の提供(グランティング)およびその運営
  3. 3. 研究開発・イノベーションおよび人材育成の実行
  4. 4. 規格設定・品質の基準設定および管理サービスの提供
  5. 5. 知識の運営・研究成果およびイノベーションの実際の運用
  6. 6. その他

「高等教育・科学・研究・イノベーション省」の傘下に統一された科学技術・イノベーションに関連する各行政団体とその役割 (同省資料から)

この政府による科学技術の研究開発、イノベーション推進のための新体制がスタートしてまだ間もないのだ。しかしすでにまとまった予算を獲得することができ、その運営責任が明確化・具体化になったがために民間を含む各方面からの期待も大きい。

ライフサイエンス・イノベーションとTCELSの役割と課題

特筆すべきはTCELSのこれまでの役割の最近の変遷だろう。ライフサイエンスに特化したこの機関は以前研究費の調達・充填から商業化までアカデミック・民間をともに支援してきた。改革後はライフサイエンス分野の研究開発の商業化と産業興しに重点を置くようになった。

例えば、ある大学もしくは研究機関が生理活性のある薬物もしくは医療機器のプロトタイプを技術成熟度(Technology Readiness Level - TRL)6まで開発してきたとしよう。次の段階(治験)へ進んでいくには十分や技術の評価・選別を行う必要がある。開発のための投資、商業化を手助けするパートナー探しも重要になってくる段階である。これに伴い、各種のリスクも増加する。国の予算をどこまで使うべきか、民間との交渉の結果新しいベンチャー企業や合弁企業の設立の可能性も出てきる。「新しい産業興し」はこれまでにない種類のスキル、ネットワークと志が要求される重要な仕事である。

TCELSの使命であるライフサイエンス産業の仕組み (TCELSの資料を基に筆者作成)

このように新しい体制の下で動き出そうとしているタイのライフサイエンスであるが、今後の課題もなお多い。現在国内の医療・健康製品市場ではまだ輸入に頼る部分が多く、逆に輸出が伸び悩んでいる。高い技術を要求する医療機器や医薬品では技術の開発だけではなく最終製品の品質保証・安全性保証及び標準造りが重要な課題である。

アカデミックな研究開発を産業へ結びつけるために、多数の行政・資金調達団体と大学・研究開発機関を中心にThe Medical Products Consortium of Thailand (MPCT)が最近設立された。事務局をタイFDA(日本のPMDAに相当する審査団体)に置き、タイの医療・健康製品を研究から市場まで推進する協力、規制整備及び明確な審査のルール造り、またそのためのキャパシティー・ビルディングを行う協力網である。片一方ではTCELSを軸に大学と産業メンバー26社(団体)からなるThailand Life Sciences Clusterが形成され、こちらではビジネスや投資を促進するネットワークと言って良いだろう。

一般にいう規制緩和、インフラ整備、研究開発の人材づくりもさることながら、その先にタイ発の医療製品に対する国のブランド・イメージが重要な課題だ。高い品質の製品・製造力・サービス力を競争できる価格によって国際的な信頼性を作り上げていく以外では、今後は成功の道は険しいだろう。つまり今アカデミック中心に行っている研究開発は、長い道を辿って最終的には国家の国際市場展開戦力に直結しているという意識を持たなければならない。

バイオ技術による新たなモダリティの創出

ここで一つの事例を挙げたい。マヒドン大学ラーマ病院のグループが開発したがん細胞を長期間攻撃し続けられるT細胞の作製、つまりCAR-T細胞療法についてである。

これまで世界で出回っている医薬品は、低分子医薬が大半を占めていた。近年では、抗体医薬、核酸医薬、遺伝子治療、細胞治療・再生医療と、モダリティの選択肢が広がりつつある。前述の「Siam Biosciences」のウィルスベクターワクチン、「BioNet Group」のDNAワクチン、チュラーロンコーン大学のタンパク質サブユニットワクチンやmRNAワクチンがその例である。

こうした新しいモダリティ(治療手段)は新しい研究分野であると同時にその市場規模も世界的に拡大しており、先進国では技術や知見を持つアカデミアやスタートアップ企業から生み出されるケースが多い。

タイでの医薬品研究もこの傾向に進んでおり、約8年前にTCELSが「再生医療プログラム」を始めた。研究費の調達だけではなく、インフラ整備、規制整備や人材育成も行なった。後に成果を上げた免疫療法のいくつかの研究プロジェクトの中から、特にマヒドン大学のグループの血液がんに対するCAR-T細胞療法が病院内での実証に大成功を収めた。

マヒドン大学グループはその後民間の新規に設立されたバイオベンチャー「Genepeutic Bio(GNPT)」に技術を移転し、GNPT社がその後もいくつか国の援助を受けた。現在、タイランド・サイエンス・パーク内でTCELSが整えた施設の中でGMP(適正製造規範)による製造 を行い、国内病院で臨床試験を始めているところである。数年後にはこの新たな細胞・遺伝子療法がこれまでに難治だったタイの血液がん患者に届くという夢を追っている。

マヒドン 大学とTCELSより技術移転を受けたバイオベンチャー「Genepeutic Bio」 (同社資料から)

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