2022年12月07日
松島大輔(まつしま だいすけ):
金沢大学融合研究域 教授・博士(経営学)
<略歴>
1973年金沢市生まれ。東京大学卒、米ハーバード大学大学院修了。通商産業省(現経済産業省)入省後、インド駐在、タイ王国政府顧問を経て、長崎大学教授、タイ工業省顧問、大阪府参与等を歴任。2020年4月より現職。この間、グローバル経済戦略立案や各種国家プロジェクト立ち上げ、日系企業の海外展開を通じた「破壊的イノベーション」支援を数多く手掛け、世界に伍するアントレプレナーの育成プログラムを開発し、後進世代の育成を展開中。
いよいよインドの科学技術政策を、アマルティア・セン(Amartya Sen)教授のケイパビリティ・アプローチ(Capability Approach)から見ることにしよう。因みにノーベル経済学賞をアジアで初めて受賞した大先生なので、まさに泰斗然とした近寄りがたい先生と思っていたが、米国留学中に先生の授業に参加すると、公共選択の基礎である「アローの定理」を黒板に板書しながら懇切丁寧に教えていただいた。またいろいろな形の民主主義として、なんと「日本の十七条の憲法を知っているか」、ということで、日本史にも造詣が深く、驚いたのを記憶している。
インドの科学技術政策における包括的成長への意識について、注目すべき点としては、既にこのシリーズで言及したイノベーションの位置づけに加え、
―の3つに注目し、インドにおける政策展開を中心に俯瞰していく。
第1に、インドの格差是正施策の現状と課題である。インドといえば、多くの方がまず初めに発する問いは、「カースト制度による差別の影響はどのようなものか」、というものである。ほぼ例外なく、この「カースト制度」の話が出てくるのは、義務教育でインド=カースト制度、の図式が定着しているからであろうか。厳密には「カースト」とは大航海時代のポルトガル人が命名したもので、ジャーティ(Jāti)と呼ばれるヒンドゥー教徒の排他的な職業・地縁・血縁的社会集団、階層であり、簡単に言えば、身分制度そのものではなく、職業の固定が根底に存在する。注目すべきは、他の宗教、例えばムスリムもインドの全人口の15%程度存在しており、規模で言えば2億人弱の人口を擁することになり、実はインドネシアに次ぐ、イスラム大国ということになる。また、複数の少数民族も存在しており、インドでは民族(Tribe)などという言い方で、やはり差別的な対応を受ける場合が指摘されてきた。
実は、こうして差別を受けてきた「カースト」(あるいは職業集団)に対する格差是正措置、いわゆる積極的改善策(アファーマティブ・アクション:Affirmative Action)による「逆差別」も大きな社会問題として認識されている。いわゆる是正対象となる指定カーストや指定民族を、Scheduled Castes (SCs) や Scheduled Tribes (STs)として積極的支援の対象としている。これらは例えば選挙(国会における一定の議席確保)や職業上の積極的改善策だけでなく、インド高級官僚(IAS:Indian Administrative Service)や大学の入学試験においても優遇されることになる。割り当て(Quota)と呼ばれる仕組みがそれである。
インドのアカデミアの先生方と話をしていると、例えば、名門大学への進学において、首都デリー市内から、入学できるのが数名しかおらず、逆に不公平ではないか、という話を何度か聞いたことがある。また著者がインドに駐在している間にも、医学部への入学にも制約があり、これらに対して学生のストライキが発生したというような話も聞いたことがある。また、IASについても、国家公務員試験の割り当て制度があることから、例えば、英語がしゃべれないIASが問題になるといった話も聞いたことがある。こうしたかなり積極的な格差是正措置により、インド政府の真摯な取り組みをみることができるだろう。同時に、これら多様性を維持しつつ、成長を遂げるインドという大国にとって、不可避に直面する課題であるといってもよいかもしれない。
第2に、科学技術政策をめぐる、科学者と政策当局者の関係性についても、インドは特徴的である。1999年に設置された内閣科学諮問委員会(SAC-C: Scientific Advisory committee to the Cabinet)の議長は、首席科学顧問(Principal Scientific Advisor)となる。この人物が、科学技術政策を牽引することになる。そして、初代首席科学顧問は、インドの「ミサイル開発の父」と形容されるアブドル・カラム(Dr. Abdul Kalam)氏であり、この顧問を退任した後、第11代のインド大統領に就任した。著者のインド駐在中は、このカラム大統領の在任中で、デリーのインド門から直線に伸びるインド大統領府(Rashtrapati Bhavan)に訪問させていただいた。
つまり、インドの科学者が同時に大局的に科学技術政策を総覧するという立場で政権に助言するというのはインドの特徴であるといえるだろう。さらに、第3代インド首席科学顧問で、2022年4月に亡くなった、故Krishnaswamy VijayRaghavan(クリシュナスワミ・ヴィジェイラガバン)氏は、日本とも関係が深かった。同氏は沖縄科学技術大学院大学理事を務めるとともに、さくらサイエンスインド同窓会発足式などにも参画し、日本とインドの連携、特にこの科学技術分野での協力に貢献してきた。同氏の場合、発生生物学や神経遺伝学(キイロショウジョウバエをモデルとした筋・神経系の接続と運動原理)が専門であるが、同時に、インド科学技術庁やバイオテクノロジー庁の次官を歴任し、行政分野でのバックグラウンドもあった。
現モディ政権誕生後の2018年8月には、前回言及した通り、新たに科学技術イノベーション首相諮問委員会(PM-STIAC: The Prime Minister's Science, Technology and Innobation Advisory Council)が誕生した。この委員会の議長を、この首席科学顧問が兼務する。現在、同委員会では、「科学技術に関する戦略や省庁間の連携・調整を推進し、様々な科学分野の相乗効果をもたらしイノベーションを推進する政策イニシアティブ」(Policy and strategy initiatives; synergy among the various scientific departments and other ministries in creating an enabling S&T ecosystem that encourages innovations across disciplines.)を進めており、先に言及した科学技術政策領域にイノベーションを導入した政策の展開を引導することとなっている。
そこでは、
―が目的となっており、インド政府への助言を行うこととなっている。
第3は、若い世代へのチャンスを提供することで、科学技術分野においてインドの包括的成長に貢献する政策展開である。2008年12月に内閣で承認され、2009年よりインド科学技術庁で実施されているのが、「インスパイア・プログラム(INSPIRE:Innovation in Science Pursuit for Inspired Research Programme)」である。このINSPIREは、一貫した研究キャリア支援のプログラムであり、10歳から32歳の若者を対象とする。そこでは、若者の才能を見出したうえで創造性を育むことを目的に、若年層の科学の才能について、アカデミアだけでなく、産業界や州政府等も参画し、選別するような全インド大でのシステムである。
具体的には、SEATS(Scheme for Early Attraction of Talent for Science)という科学的才能を早期に取り込む仕組みや、SHE(Scholarship for Higher education)と呼ばれる、高等教育に向けた奨学金制度、さらには、AORC(Assured Opportunity in Research Career Fellowships and Faculty)という、研究キャリアの機会を保障するフェローシップや教員への道を提供などを実施している。具体的には、下記の表にあるようなメニューを提供している。
メニュー | 概要 |
---|---|
INSPIRE Awards | 全インド中高校から選抜、科学技術プロジェクトを実施し、優秀者は地区大会→州大会→全国大会に進む |
INSPIRE Internship | 全国トップ1%(50,000名)に各種インターンシップ機会提供 |
INSPIRE Scholarship | 全国テスト上位1%、10,000人に毎年8万ルピー(13万円)の奨学金×5年間を支給 |
INSPIRE Fellowships | トップ1000人に理系大学院博士課程フェローを保障 |
INSPIRE Faculty | 全国選抜の結果トップ200-300人に理系大学研究員を保障 |
=このシリーズおわり