スパコン開発加速が拓く「誰もがビッグデータの恩恵を得る未来」 シンガポール

2023年3月31日 JSTアジア・太平洋総合研究センター フェロー 斎藤 至

HPCが生む計算結果は、社会のあらゆる場面で活用が期待される(写真はイメージ)

シンガポールは2014年に掲げたスマート・ネイション構想以降、政府の強いリーダーシップの下、デジタル化を推し進めてきた。2022年のノーベル物理学賞で欧米の研究者3名が受賞し注目された量子コンピューティングのほか、スーパーコンピュータの開発においても、シンガポール科学技術研究庁(A*STAR)を中心に力を注いでいる。

その研究開発拠点となるのが、2015年に設立された国立スーパーコンピューティングセンター(NSCC)である。高性能コンピューティング(HPC)の「民主化」を掲げ、初の国産ペタバイト規模スーパーコンピュータであるASPIRE 1(Advanced Supercomputer for Petascale Innovation and Enterprise 1)を設立後わずか1年で開発した。ASPIRE 1は2019年にシンガポール国家研究基金(NRF)から2億シンガポールドル(約200億円)の資金を受けるなど重点分野となるが、2022年に大幅な更新を遂げ、ASPIRE 2Aとなって稼働中である 1

A*STARが最近示している通り、HPCの使途は多岐にわたる 2。まず、気候変動がもたらす地理的影響を予測し対処することが挙げられる 3。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)などの大規模感染症対策や難治性の疾病予測に、患者の臨床データを活用すること 4。そして冒頭にも述べた、次世代コンピュータの開発にむけた礎石とすること、などである。シンガポールは国の研究開発エコシステムにHPCの成果であるビッグデータを開放し「誰もが利用できる公共インフラ」とすることで、社会全体がその恩恵に与ることを目指しているという 5

シンガポールはマレー半島の南端に位置し、洪水や津波など自然災害への対策と共に、水資源の確保が国家安全保障上の課題として重視されてきた。船舶の安全な航行や、気象の状況に応じた治水などを適切に行うには、精度の高い気象予測が不可欠である。これに対処するモジュールが、気象・環境研究への応用を目的として2020年に稼働を始めた「ケッペン・システム(Köppen System)」である。2008年に開業したマリーナ・バラージ(Marina Barrage, 滨海堤坝)は、水門を内蔵し上部に遊歩道を設けた防潮堤で、国内5つの河川の合流地に建造され、飲用水・生活用水確保、洪水対策、レクリエーションという3つの需要に応える機能を兼ね備えたインフラである。マリーナ・バラージに代表される様々な設備もHPCを用いた予測技術の導入で、一層適切に運用されるだろう。

デジタルヘルスの分野では、深層学習を組み込んだモジュール「AI Platform」がある 6。2022年3月1日に、NSCC、シンガポール・ヘルス・サービス (SingHealth)と、米国半導体メーカー「エヌビディア」(Nvidia)の間で、医療分野の研究を進めるためにHPCに関する新しい契約が交わされ、販売が開始された 7。HPCが人工知能(AI)を利用して患者の臨床データ学習・訓練を施し、症例の緊急度を見極める判断材料や、患者の将来状態予測に用いることを主目的としている。

最後に、古典系のコンピュータであるHPCは量子コンピュータのシミュレーションにも役立てることができる。2022 年 4 月、NRFが3年半で2,350万シンガポールドルを投じる量子工学プログラム第 2 期が始まり、国家規模のコンピューティング・ハブやハードウェア製造拠点、通信ネットワークなどを新たな柱に据えている 8。古典系と量子系それぞれの長所を活かすことで、新しい研究手法の採用が可能になる。

シンガポールは最新の5カ年計画『リサーチ、イノベーション、企業2025年計画(RIE2025)』でも「スマート・ネイションとデジタル経済(SNDE)」分野への注力を掲げ、ハイテク・デジタル・ソリューションの開発、適用、測定の取組に対して継続的に資金を提供し産業界の需要に応えることを表明している 9。継続的な注力は国際的にも評価され、スイス国際経営研究所(IMD)の「デジタル競争力」ランキングでは2018年から4年連続で上位5位以内を維持している 10。2022年2月1日には、欧州連合(EU)とデジタル技術分野における協力を強化する「デジタルパートナーシップ」およびその主要成果物である「デジタル貿易原則」に署名した 11

他の東南アジア諸国も、先進諸国・地域からの支援を得てHPCに注力しつつある。2021年からは、タイ国立科学技術開発庁(NSTDA)やASEAN HPC タスクフォース等が主導し、1週間程度の短期集中セミナーとしてHPC Schoolが開講されている。とは言え、早くから一頭地を抜くシンガポールが、今後もアジア・太平洋地域を牽引することは間違いない。「誰もがビッグデータの恩恵を得る未来」は遠くないと期待されよう。

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