2025年9月12日 斎藤 至(JSTアジア・太平洋総合研究センター フェロー)
シンガポールは計画的かつ着実な科学技術政策の実施を通じて、東南アジア諸国の中でもAI・量子・半導体などの先端技術で高い研究開発水準を示してきた。同国はまた、世界中の諸国と分け隔てなく科学技術協力を取り結んでいる。そのためシンガポールにとって、研究プロセスを不正なく実施し、研究成果を外的な脅威から守ることは、国際社会で自らの存在感を維持する上で特に不可欠である。本稿ではこうしたシンガポールの研究インテグリティと研究セキュリティについて、現状を概観する。
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検討対象とする研究インテグリティと研究セキュリティについて、本稿では日本政府が示す以下の定義を採用する。研究インテグリティは「研究者及び大学、研究機関等において自律的な確保を要請される、研究の健全性・公正性」iとし、研究セキュリティは「外国への技術流出等につながる、外部からの不当な影響・干渉のリスクから研究を守ること」iiとする。なお、この定義では「研究者及び大学、研究機関等が自律的に外部からの不当な影響・干渉のリスクから研究を守ること」が研究インテグリティと研究セキュリティの双方に重なることに留意する必要がある。
シンガポールでは、シンガポール宣言(2010年)iiiを一つの出発点として、研究機関・研究資金提供機関が規定・手続き・要求事項を整備している。同宣言を発表した「研究公正に関する世界会議」(WCRI)は、国家主体ではなく、研究者(諸科学分野及び研究倫理・公正分野)や学術出版社で構成される。
シンガポール宣言はWCRIが設立後初めて発表した国際合意であり、法的強制力を有する規制文書ではないにもかかわらず、各国・各研究機関が規範を作成する際の基本原則となってきた。なお、同宣言は研究インテグリティ確保を振興するための国際的・組織的取り組みとしては比較的初期のものであり、日本においても参照される場合が少なくない。
また、シンガポールでは、後述するように、ほぼ全ての主要な大学、研究機関等が参加する複数の組織に跨る研究インテグリティ振興のための枠組や組織(連合体)があり、組織横断的な活動が行われている。
一方で「研究の国際化やオープン化に対するリスクへの対応」は、日本に比べると体系的には整備されていない。日本の場合は、2021年4月に統合イノベーション戦略推進会議が、政府として研究者及び大学・研究機関等における研究インテグリティの自律的な確保を支援し、研究者、大学・研究機関等、研究資金配分機関等と連携しながら講じる取り組み等を、「研究活動の国際化、オープン化に伴う新たなリスクに対する 研究インテグリティの確保に係る対応方針について」として決定している(本稿注ii参照)。この取り組みの一例として、政府は各研究機関に対して、利益相反・技術流出・信頼低下のリスクに対する「チェックリスト(雛形、2023年6月)」を提供し、適切な対応をとることを求めているiv。一方、シンガポールの場合、国家として大学、研究機関等に対応を要請する指針や規定は見いだせなかった。現状において、上述のようなリスクへの対応は、大学や研究機関等の個別判断や取り組みに委ねられていると推測される。
研究インテグリティの振興を図る取り組みとしては、複数の組織に跨るものと、個別組織で独自に整備しているものとがある。
組織横断的な取り組みの代表例として、自治大学を含む研究機関の共同ポリシー(2018年)があるv。特に学術研究の成果を論文として出版するプロセスを念頭に置いて、共同で遵守する六原則に、①リーダーシップ、②誠実性、③再現性、④適法引用、⑤謝辞、⑥内部通報を掲げている。
より参加機関数を拡大した大規模な取り組みとして、SIRION(研究インテグリティ・ネットワーク)viが2018年から活動を開始している。このSIRIONは10会員機関(科学技術研究庁[A*STAR]、シンガポール国立大学[NUS]、南洋理工大学[NTU]など)とオブザーバとして3つの政府機関(教育省、保健省、NRF)から構成され、組織相互のインテグリティ実践を自発的に促す組織間ネットワークである。SIRIONは2025年5月に研究インテグリティに関する国際カンファレンスをシンガポールで開催し、構成組織やその所属研究者に加え、研究倫理・学術出版・情報流通関係者が議論した。
個別組織の活動の代表例として、A*STARは、研究資金提供機関として、助成先研究機関の所属研究者が研究公正の義務を果たすよう、適切なシステム整備の必要性を契約条件に明記しているvii。NTUは、個別の研究大学として、国際合意・共同声明を踏まえながら、研究データ管理・研究成果の出版倫理について規定を設けている。ほとんどの規定は全ての学術分野を対象としたものであるが、特に生物医学研究については別個に規定を設け、被験者としてのヒトに対する配慮を明記している。
研究インテグリティ同様、研究セキュリティに関しても、政府としての規定等は調査した範囲では見いだせなかった。政府としての外国への技術流出防止等の規制や対応は、あくまで貿易管理(輸出管理規制)の枠内で対象が指定され、規制されているにとどまるviiiものと理解できる。2025年4月に「先端半導体及びAI技術の輸出管理に関する共同勧告」ixが発表され、迂回輸出により他国の輸出管理規制を回避しようとする企業の行為を容認しない方針が表明されたが、これも個別技術に関する貿易管理の枠内に留まっている。
一方で研究機関によっては、外国への流出等のリスク対応として、技術の保護や保全に関わる対応を行っている。例えばNTUでは、体系的な規定や手続きの整備について不明ではあるが、同大学ウェブサイトで、研究インテグリティとは別途に研究の保護と保全(protection and safeguards)を所属研究者に要求している。この下では、国際共同研究に際して、外国への技術流出や外国からの不当な干渉が懸念される際は、相手方である共同研究機関にも査察に応じるよう要求しているx。なお、NTUの場合は、国防省(MINDEF)や他の防衛関連機関と協力を行っており、防衛関係研究を調整し、国防省と直接対話を行う事務組織として「防衛・セキュリティ研究技術局(ORTDS)」xiの設置がウェブサイトに明示されている。
以上示してきたように、シンガポールにおいては政府として輸出管理等により外国への技術流出防止等の規制は行っているものの、研究インテグリティと研究セキュリティに関しては、政府が定めた関連規定等は見いだせず、政府主導による厳格な措置を講じている状況は見受けられなかった。また、自治大学やA*STARなど複数の国内主要機関が連合体を組んで、政府機関の関与を交えつつ、研究インテグリティ確保等に対する実践の促進や、実践に向けた議論を積み重ねていることも明らかになった。このような活動により、前述した各大学、研究機関、更には研究資金提供機関の対応は、シンガポール宣言を基本としつつ、独立して自主的に整備されたものではあるが、全体として効果的で整合性がとれたものとなっていると推測される。一方で、個別の研究機関で見ると、特に外国への技術流出や外国からの不当な干渉に対する対応などでは、機関ごとに厳格さの程度が異なる対応がなされているものと推測される。
このようにシンガポールの研究インテグリティは、その定義通り、研究者及び大学、研究機関等の自律的、自主的な活動が重んじられており、政府機関の関与は見られるものの、政府としての指針や規定は調査した範囲では見いだせなかった。
研究セキュリティ確保については、国際的に見ると、欧米諸国や日本では、特にAIや量子といった先端技術分野において、自国の研究成果を守るとともに、その流出を防ぐ措置に注目が集まり、この数年で各国政府としての対応策が具体的に顕在化しつつある。シンガポールは欧米諸国や中国とも研究協力を緊密に実施していることから、その関係を維持できるよう、各国や国際機関での動向を注視しつつ、研究セキュリティ確保のための政府としての対応策の準備が具体的に進められつつあると推測される。