2021年6月16日
松島大輔(まつしま だいすけ):
金沢大学融合研究域 教授・博士(経営学)
<略歴>
1973年金沢市生まれ。東京大学卒、米ハーバード大学大学院修了。通商産業省(現経済産業省)入省後、インド駐在、タイ王国政府顧問を経て、長崎大学教授、タイ工業省顧問、大阪府参与等を歴任。2020年4月より現職。この間、グローバル経済戦略立案や各種国家プロジェクト立ち上げ、日系企業の海外展開を通じた「破壊的イノベーション」支援を数多く手掛け、世界に伍するアントレプレナーの育成プログラムを開発し、後進世代の育成を展開中。
参考:コロナ禍での国際連携(日印連携)の可能性③ ~日印の連携によるビヨンド・コロナ・イノベーション~
世界的な新型コロナウイルスの感染拡大のなか、インドは大変な状況に直面している。2021年5月5日現在、1日当たりの新型コロナウイルス感染者数は、40万人近くに垂んとしており、世界最多を更新した。併せて1日当たりの死者は2000人を超えており、これについても過去最多の数となっている。このような深刻な状況の舵取りをすすめているのがインドの第18代インド首相である、ナレンドラ・モディ(Narendra Damodardas Modi)首相である。
実は著者は、グジャラート州(Gujarat)の州首相(Chief Minister:CM)時代、一緒に仕事させていただいた経験がある(写真参照)。インドブームによって日系企業から関心が高まってきたインドに対し、2006年に経済産業省からインドの日本貿易振興機構(JETRO)ニューデリー事務所に出向し、2010年まで駐在した。当時は、1日に6件近く日本から企業関係者を招く、満員御礼のインドブームであったと記憶している。当時、インドが経済自由化の集大成として、本格的に、輸入代替から輸出志向へと舵を切り、成長軌道を確保しつつあった。他方、インドは州ごとに分権的な統治構造であり、28州ごとに産業政策や経済政策を展開している。ちょうど、州政府と連邦政府のアメリカ合衆国や、欧州連合(EU)の一つの国のような分権的な統治体制であるという人もいる。
著者とモディ・グジャラート州首相との打ち合わせ(2010年、インド講演資料より)
これに対し、当時のマンモハン・シン(Manmohan Singh)首相率いるコングレス(Congress、国民会議派)を中心とした与党に対し、何度か日系企業のインド経済ミッションをお連れして、意見交換の機会を得た。この際、シン首相から日本の戦後成長の奇跡の理由を聞かれ、輸出志向型経済成長に向けた日本の政策的遺産である太平洋ベルト地帯の整備を説明し、輸出港湾の整備と、動脈の整備という政策の「輸出」、すなわちDMIC(Delhi-Mumbai Industrial Corridor)を提案したところ、大いに賛同を得て、沿線地域の工業団地・インランドデポ(Inland Depot)、そして深海港の整備について準備を進めることとなった(図参照)。実は、その一方でマルチスズキ(Maruti Suzuki)やTATAモーターなどの自動車輸出に機運が高まり、日産自動車などもパートナーであるルノーとともにインドでの輸出拠点を模索するに至り、港湾開発の中心としてグジャラート州に白羽の矢が立ったのである。ちなみに日産自動車はその後、提携先であるルノーの拠点であったチェンナイ(Chennai)に拠点を構えることになったが、チェンナイでの港湾開発においても、タミル・ナドゥ州(Tami Nadu)政府に日参して様々な事業の交渉をさせていただいた。
DMIC構想について(DMICワークショップより)
以上の経緯を経て、グジャラート州には何度か訪問させていただき、モディ首相にも複数の日印連携プロジェクトを提案させていただいた。深海港の開発について、グジャラート州最西端のムンドラ(Mundra)港の巨大な開発を始めて観た際には度肝を抜かされたが、これを、インド政府ではなく、アダニ財閥(Adani Group)というインドの新興財閥である一つのグループが単独で開発を進めており、さらに鉄道本線までの長距離の引き込み線を自力で整備しようという底力に圧倒されたものである。またスーラット(Surat)の港はムンバイから鉄道で出張する機会を得たが、インドの鉄道事情について「インド時間」(時間厳守があてにならない)などの洗礼を受けたが、併せて地方都市の圧倒的な活力を見て衝撃を受けたものである。スーラットは、ムスリムの聖地巡礼に向かう出発点として、ハジラ(Hazira)港を有した歴史的な土地であり、この国の多様性が凝縮した場所でもある。
グジャラート州では、日系企業とシンガポール企業との連携によるダヘジ(Dahej)の港湾都市開発と海水淡水化事業、日本の自治体のノウハウを活用し廃棄物として回収された携帯電話からリチウムを回収するリサイクル・プロジェクトなど様々な取り組みをモディ首相に提案してきた。モディ首相はそのたびにかなり熱心に耳を傾け、グジャラート州の経済発展に向け、情熱をもって取り組む様を目の当たりにしたものである。アラン・ソシア(Alang/Soshiya)地区で展開されていた船舶の解撤事業(シップリサイクル事業)では、「船のバーゼル条約」、通称「香港条約」の締結を前に、船舶の解撤市場について、世界有数の船籍保有国である日本の海洋戦略として、インドとパートナーを結びつつ、世界的な課題である解撤に伴う海洋汚染を防ぐという提案であった。
ことほど左様に、日本が反面教師となる経済成長の負の部分である公害問題や地球温暖化の問題などを予め提案することで、結果として環境配慮の循環型社会を目指す提案を持ち込み、今でいうSDGs(Sustainable Development Goals)を目指す持続可能な発展に向けた期待が強かったように思う。現地TV局の取材をご一緒したが、グジャラートの発展に向けた熱い思いを訴えておられたのを今でも覚えている。
一方で、グジャラート州は、「ドライ州(dry state)」、いわゆる「禁酒州」であり、日系企業の従業員にとって仕事終わりの飲酒はかなり重要な投資条件になる可能性があるという話もよくご存じで、外国人向けの特別な販売所での酒類販売措置など、真剣に配慮して頂いた。
一度JETROでグジャラート・セミナーを打とうということで、2008年夏にモディ・グジャラート州首相(当時)を東京にお招きしたことがある。モディ首相にグジャラート州の戦略をご講演頂く前に、「前座」として著者が日系企業のインドの見方、とりわけ、グジャラート州について説明するという大役を頂いた。当時は「グジャラート州」という言葉すらまだメジャーではなく、日系企業の皆さんには、グジャラートで今後、どのような可能性が展望できるかという状況であった。そこで先ほどの太平洋ベルト地帯のアナロジーを用いて、「グジャラート州は、日本の名古屋、中京工業地帯である」と説明してみることにした。首都であり政治の中心となっているデリーから商都ムンバイまでの1500㎞、ちょうど、首都東京と商都大阪を結ぶ名古屋同様、デリーとムンバイの間の「扇の要」であるグジャラート州の物流の重要性、内陸に発展したグレーター・デリーの経済圏を輸出志向に持ち込むための大動脈のグローバル・アクセスを目指すのはグジャラートしかないという発想である。その地理的な優位性を前提に、当時は自動車産業の中心拠点として、日系企業のみならず、その後はTATAモーターの新規工場たち上げにもつながった。
もう一つ印象的だったのが、日本での講演にお迎えしたモディ首相が、せっかくの機会なのでどこか半日でも見学してはどうかという話になった。こちら側としては、てっきり京都を見学したいと希望されると思っていたが、なんと広島を訪問されたいとの意向であった。インドでは、学校でもかなり克明に広島、長崎の原爆の話をするそうで、実際に現場をご覧になりたいという思いに、強く心を動かされたものである。